「努力」という言葉をめぐって

名古屋別院から『信道』(講演録)が発刊された。この2020年度は、本来であれば「はじめての教行信証」というテーマで、毎月、各講師が出講して開催される予定だった。しかしコロナウイルス騒動でそれができなくなり、テーマを「現在、課題としていること」に変更し、4名の講師で開催された。講師は、お西の「勧学」である内藤知康さん、テーマは「生死出づべき道」。首都圏教化教導の海法龍さん、テーマは「人間の本質ー新型コロナウイルス感染拡大から問われていることー。大谷大学准教授の藤元雅文さん、テーマは「本願のよびかけに開かれる歩み」。そして小生である。テーマは「一人一世界への覚醒」にした。全87ページで薄く読みやすいので、ご希望の方は真宗大谷派名古屋別院(℡052-321-9201)へご注文の程。(代金は1,000円)
さて、その本の中で、藤元さんの紹介しているエピソードに目が止まった。それはお子さんと同級生との、塾の模擬試験についての会話だ。「俺、実はさぁ、あのテストの結果、親に見せたら泣かれちゃってさぁ。親に、どんな思いをしてあなたの塾のお金稼いでいると思ってるのーって、言われながら泣かれちゃってさぁ。めっちゃつらかってん。」「そうなん?それつらいよな」。「親に泣かれるってこんなにつらいと思わなかったわ」。そして、その話の最後に、「親にそう言われたのはめっちゃつらかったんだけどさ、でも俺、”馬鹿”なクラスに行きたくないしな」と言ったそうだ。それについて藤元さんは、「もし、その子がどんなに勉強を頑張っても、そのクラスに入れなければ、その子はずっと『”馬鹿”なクラスにしか行けない自分』と、そのように自分に言い続けるしかないのだろうなと思いました。逆に、もしその子が努力して上のクラスに入った時に、『そのクラスに行けない他の人たちは、みんな”馬鹿”なクラスの人』という評価になってしまうのだなと。(略)私自身は、彼のその一言から、私たちの社会が、そして私自身が問われているように感じました。」とあった。
 これを読んでいるとき、「”馬鹿”なクラス」にしか行けなかった自分があぶりだされたように感じた。勉強という知的訓練には四通りのタイプが生まれる。一つ目は「努力しなくても好成績の取れるタイプ」、二つ目は「努力をして好成績を取るタイプ」、三つ目は、「努力をしても好成績の取れないタイプ」、四つ目は「もともと努力を諦めているタイプ」だ。自分は、三つ目のタイプだと思っていた。だから親から、「あなたは努力すれば伸びるタイプだから頑張りなさい」と言われ続けた。しかし、その結果は惨憺たるものだった。そうなると、次のような分析が出る。私は努力をすれば高得点を取れるはずなのに、実際には点数が取れない。点数がとれない原因は能力にあるのではなく、努力の結果だ。そうすると点数が取れないのは、努力が足りないからだ。だから努力をするしかない。しかし、その結果が思わしくないとなると、もっと努力を重ねなければならない。親も、そして自分もこういう分析をしてきた。しかし、これは「家族」という閉鎖空間だけの話ではなく、いわゆる「社会全体」、つまり人間であれば誰しもが考える傾向性ということではないのか。
 確かに、鉄棒の「逆上がり」ができなかったとき、何回も努力してできるようになることがある。乗れなかった自転車に乗れるようになることもある。努力をして、前よりもよい成績を取ることができることもある。しかし、それには限界があることも知っておくべきだ。できる範囲内の「努力をすること」は大切だが、「努力をすれば何でもできる」と考えることはまったく違うのだ。心理療法家の河合隼雄さんが書かれた『心の処方箋』(新潮文庫)の中には「ものごとは努力によって解決しない」という素晴らしい言葉がある。この中で、「努力をすれば何でもできる」と考えているひとは、「解決できるはずのない努力をし続けることによって、何かの免罪符にしているのではないか。」という言葉もあった。つまり、自分にとって不都合な結果がやってきたとき、それに対して、すべて「自分の努力が足りなかったからだ」と考えて自分を責めることの悲惨さを語っていた。この発想は、一個人だけの問題ではなく、この社会を構成する構成員すべてが持っている発想ではないかと思われた。
 人間にとっての「現状」とは、いつでも、自分の好ましい「現状」とは限らない。それは「日常」が「四苦八苦」という「限界状況」が剥き出しになっている場所だからだ。「四苦八苦」の「四苦」は「生・老・病・死」といういのちの事実そのものが剥き出しになっている状況。次の「四苦」は「愛別離苦・求不得苦・怨憎会苦・五蘊盛苦」だ。合計して「八苦」だ。この「四苦八苦」をいのちの根底にしている限り、「現状」は好ましいものにはならない。いまのお子さんの話に置き直せば、自分が努力して「馬鹿”なクラス」に入らないことは好ましいことだし、もしそれが叶わず、「馬鹿”なクラス」に選別されてしまえば好ましいことではない。この苦しみは「求不得苦」である。欲しいものが手に入らない苦しみである。その苦しみを生んでいるのは「貪欲」という煩悩である。「貪欲」は「貪欲」という煩悩が単体で起こるものではなく、必ず「慢」という煩悩と連動して起こる。「慢」とは「我慢・傲慢」の慢だが、正確には「比量」と言って、「比べる」という煩悩だ。模擬試験の結果を他者と比べて、「馬鹿”なクラス」には行きたくない、「優秀なクラス」に行きたいと貪るのが「求不得苦」の地獄を生むこころだ。人間にはもともと違った能力が与えられている。もし百人の子どもに、徒競走をさせれば、百通りのタイムでゴールするだろう。もともと違うものなのだが、それをある一つの価値観で測ろうとする。例えば、それは「点数」である。なぜそうするのかと言えば、人間が人間を支配しやすくするためだ。社会が人間を支配するためでもあり、また自分が自分自身を納得させるためである。なぜ支配しようとするのかと言えば、それは自分が根本的に不安だからだ。自分のアイデンティティが不安定なものだから、一つの価値観で序列を作ってもらい、その中に自分を当てはめて安心しようとするのだ。
しかし、それが現実の社会であって、それ以外に生きる世界があるのかと言えば、それはない。我々の社会は、そういう「貪欲」が作る「共同幻想」の社会だからだ。この「共同幻想」という言葉は吉本隆明さんの言葉だが、ものすごい御利益のある言葉だ。我々が見ている「現実の社会」を「現実」ではなく、「幻想」だと教えてくれるからだ。「幻想」だと教えられることで、地獄のような「現実」に対処する道が開ける。模擬試験の結果で一喜一憂している少年を救う言葉でもある。どうやって救うのかと言えば、模擬試験は「幻想」だと覚めることでだ。それは模擬試験の延長線上にある「絶望の人生観」から、彼を救うのだ。「絶望の人生観」とは、なぜ勉強するのかと言えば、よい学校へ行くために、なぜよい学校へ行くのかと言えば、よりよい仕事に就くために、高学歴、高収入でよい生活をするために、よい生活をして、最後は立派な葬式をしてもらうために。これが「絶望の人生観」だ。それは「死ぬために、一生懸命努力して生きている人生観」になる。それが、実は「幻想」だと目覚めなければ、少年は救われない。
 もう一つ思い出した。それは、あるお寺で仏具のお磨き作業をしていての話だ。子どもたちが、思い思いの真鍮の仏具を磨いて、「これで完璧だ」と思い、子どもが住職のところに持ってきて、「どう?」と聞いたそうだ。それに対して住職は、「まだよく磨けていないから、60点だな」、次の子が持ってきたときには、「君は70点」と言ったそうだ。そうしたところ、子どもが、「学校でも点数でやられるのに、お寺に来てまで点数で量られるのかよ」と愚痴ったそうだ。そういう子どもの愚痴を聞いて、住職は済まないことをしたと謝ったというエピソードだ。
 まあ確かにそういうことが起こりうるのが娑婆だと思った。しかし、娑婆では点数で量られるけれども、寺では量らないというのでは何かおかしいように思った。寺と言っても、この世に存在している限り、娑婆という世界にあるものだ。だから、「点数」でとは言わなくても、住職のこころの中では、「彼のはよく磨けている仏具」、「この子のはよく磨けていない仏具」という思いが起こっているはずだ。この思いがある限り、「点数」という言葉を使うか使わないかの違いであって、やはり「比べる」という意識はあったのだ。これは否定できない事実ではないか。
〈真・宗〉が言いたいことは、どれだけ娑婆の価値観で比べられようとも、そんなものは一向に意に介さないようになれることではないか。「娑婆では比べるけれども、せめて寺では比べないよ」というメッセージでは弱いのだ。寺も娑婆内的存在であるのならば、「点数」で量られることもある。しかしいくら「点数」ではかられてもへこたれない子どもになって欲しいと思う。子どもたちは、永遠に寺の中で守られているわけにはいかない。娑婆は「比べる世界」であるから、どれだけ比べられても、それに負けないだけの世界を持っていなければならない。つまり、「比べる世界」を「幻想」だと切り分けられる眼が養われなければならない。この眼を養うところが、寺という異空間ではないか。
果たして「馬鹿”なクラス」はどこにあるのだろうか。これも比べるという煩悩が引き起こす「幻想」である。「比べる世界」だから、自分をどこに置くかで見方が変わってくる。自分の通っていた中学校では優等生グループに属していたが、高校で進学校に入ったら劣等生グループにしか属せなかったという話を聞いたことがある。知的能力の世界では、上には上があるのだ。もし自分が「劣等生グループ」だと受け取ってしまい、それが「現実」だと判断したら、彼は一生、劣等感の中で生きていくしかなくなる。それでも下を見れば、「俺のほうが優秀だ」と自分を慰め、上を見てはうらやましいという羨望を懐いて生きるしかなくなる。この「下を見れば」という意識が、あらゆる「差別」の発生源であることに違いない。「下」という幻想を作り上げることで、自分を浮かび上がらせようとする姑息な意識だ。「下」を作るのは、自分を「上」に持ち上げるためなのだ。もし「絶望の人生観」に蹂躙されているとしたら、一生を「劣等感と優越感」という地獄で生きなければならない。
そのためには、この人間が「現実」だと考えている世界を、「幻想」だったと見破らなければならない。見破った上で「幻想」を「幻想」として生きていくのだ。そうそう河合隼雄さんも、こう締めくくっている。「(ものごとは努力によって解決しない、と)口走っていたら、『それにしては、あなたはよく努力するじゃないの』と言われたことがある。それに対して、私は『努力によってものごとは解決しない、とよくわかっているのだけれど、私には努力ぐらいしかすることがないので、やらせて頂いている』と答えたことがある。他にすることがないのでやっているが、別に解決を確信しているのではないのだ。
努力によってものごとは解決しない、と知って、一切の努力を放棄して平静でいられる人は、これは素晴らしくて、何の言うこともない。努力とか解決とかいう次元は、この人にとって関心事ではない。しかし、われわれ凡人は、努力を放棄して平静でなど居られない。いらいらしたり、そわそわしたり近所迷惑なことである。そんな状態に陥るくらいなら、努力でもしている方が、まだましである。」と。
これも河合先生、一流の言い方で、ひょうきん過ぎて笑えてしまう。しかし、ここにも「他力」の味わいが十分表れているように受け止めた。目の前のことに一生懸命、取り組むことは素晴らしい。それこそ「他力」がなければ、精魂込めて物事に取り組むことはできない。しかし「努力をすれば何でもできる」と考えることは罪なのだ。河合先生も、他人から見ればいかにも「努力している」ように見えても、ご本人はそんな意識もなく、ただ目の前のことに丁寧に取り組んでおられただけなのだろう。