ジャーナリスト宣言

2015年に朝日新聞社が「ジャーナリスト宣言」というものを出した。それがこれだ。
「言葉は
感情的で、
残酷で、
ときに無力だ。
それでも
私たちは信じている、
言葉のチカラを。」
この宣言を出した後、記者の不祥事があって、せっかく出した宣言を引っ込めてしまった。世間からは、「そんな宣言を出せるようなお前たちなのか」と批判を浴びることを警戒したためではないかと思った。しかし、ひとりの不祥事で引っ込めるには、あまりに勿体ない。「それはそれ、これはこれ」と対応して欲しかった。「謝るべきところは謝る。しかし、主張すべきことは主張する」という態度が欲しかった。もっと言えば、朝日新聞社、そのものが「自分たちは完璧なジャーナリスト」だと自認したから引っ込めたのだろう。完璧なジャーナリストが不祥事を起こしたら、ジャーナリスト失格だと思ったからだろう。しかし、本質は非の打ち所のないジャーナリストなどどこにもいないのだ。ただ自分たちはお粗末なジャーナリストだが、真のジャーナリストたろうとしている「発展途上のジャーナリスト」だと考えて欲しかった。
それはともかく、この宣言は「言葉」の本質を言い当てた素晴らしい表現ではないか。これは新聞社という一企業が出したコマーシャルという次元を超えている表現だ。私が褒めるから、お前も企業から金をもらっているのだろうと邪推するひともあるかも知れない。まあ邪推したいひとはすればよい。邪推したいひとは、自分が邪推したことで世界を狭くしているだけだ。その邪推は損得根性で汚染されているから、世界は損得だけで動いているように見えてしまうのだ。確かに損得がなければ生きられないが、人間というものは、それだけでは生きられないデリケートな生き物だ。損得を「経済」という言葉に収めれば、人間は「経済」関心だけでは生きられない。それを下支えしてきたのが、「芸術」や「文学」や「思想」や「宗教」などへの要求ではないか。それらを「感情」という一語に収めれば、「感情」に下支えされて、初めて「経済」が健康に動くのではないか。かつて西本文英先生が、「お金は生活という機械を回す油である。多すぎてもダメ、少なすぎてもダメ」とおっしゃっておられたのを思い出す。あくまでお金(経済)は生活を成り立たせる条件であって、目的ではないという意味だ。『聖書』のイエスも、「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」(マタイ書・四-四)と言ったのと同じ意味だ。イエスが「パンだけで」と言っているのは、「経済」だけで生きられるものではないという意味だ。次の「神の口から出る一つ一つの言葉」とは、その「言葉」から生まれる意味によって支えられるということだ。「言葉」は単なる記号だが、記号が人間のこころに届いたとき、その「言葉」から豊かな意味が生まれ出る。「言葉」は眼で見ることができるが、「意味」はどこを探してもみつからない。永遠に眼で見ることはできない。それは「言葉」から、「意味」を受け取ったひとのこころの中にしか生まれないからだ。
だから「ときに無力だ」と宣言は言っている。「ペンは剣よりも強し」とは言っても、ロシアのウクライナ侵略戦争を止めることができない。しかし無力だと分かっていてもと言うべきか、無力だからこそというべきか、「それでも私たちは信じている、言葉のチカラを。」だ。銃弾を言葉に換えて、撃ちまくっていかなければならないのだろう。即効性はないかもしれないし、迂遠なことであるかも知れないけれども、それを継続していく以外にないのだ。
思えば親鸞は、生涯にわたって、二十六万七千八百十一文字を書いた。東本願寺の『真宗聖典』の中から、親鸞の著述のみを抜き出し、パソコンで文字数を計算したら、その数字が出てきた。この数を多いと見るか、少ないと見るかも味方の違いだ。しかし彼はなぜこれほどの「言葉」を残したのだろうか。それは「たかが言葉、されど言葉」だと言葉のチカラを信じていたからではないか。人間は「言葉」によって迷うものだが、また「言葉」によって迷いから覚めることができる生き物でもある。
「言葉」が単なる伝達手段の「記号」にしか見えないひとには、それが見えない。「言葉」は人間が使うツールだと見くびっているひとは、逆に「言葉」に遣われる奴隷とされてしまうのだ。丸山圭三郎の言葉を借りれば、「言葉」は「荒ぶる神」である。なぜ「荒ぶる」のかと言えば、それが人間には見えないという意味だ。見えていれば、たとえ荒ぶっていても、対処しやすい。眼に眼ないから、操られていることが見えない。ここが恐ろしいところだ。丸山圭三郎は、「言葉」の本質を「存在喚起機能」と呼んだ。「言葉」がレッテル(記号)だというのは二次的なことで、本質は「存在」を「存在」たらしめる作用なのだ。何度も語ってきたことだが、「死」という言葉を使ったから「死」が存在したのだ。まあこれもおかしな言い方だが、そうなのだ。「死」を「死」と命名したことで「死」が存在してしまったのだ。命名しなければ、人間にとって「死」は存在しなかった。これが「存在喚起機能」の恐ろしいところだ。人間にとって「死」は生理的なことでも、客観的なことでも、物理的なことでもない。「死」は、人間にとって、「死という意味」としてしか存在しないのだ。