「恋する気持ち」というテーマ

東本願寺が毎月出している広報誌『同朋』から原稿依頼が来たので、ここに拙文を紹介する。この雑誌には毎月のテーマがあって、2022年4月号のテーマは「恋する気持ち」だった。いろいろなひとたちが「恋」という言葉を巡ってエッセイを書かれているのだが、私の担当したのは、「仏教の視点から」という、少し抹香臭いコーナーだ。まあ「恋」というテーマを〈真・宗〉は、どう受け取るのかという問いに対する応答である。ここに載せた文章を補いたい気持ちもあって、後に少し補足文を追加した。

◆親鸞の結婚生活を彩ったであろう、底なしの自己肯定と懺悔。◆
【恋愛感情と夢の告げ】
男女がお互いに惹かれ合い、身悶えするような「恋」という衝動は、決して理性で押さえ込むことができない。それでプラトンは、人間はもともと「男女」が一体、つまり両性具有(アンドロギュノス)と考えた。それが神により分割され「男女」となった。「男女」と分けらたことで、もともと一体だった片割れを探し求める「エロス」という衝動が生まれた。プラトンがこのように想像せざるを得ないほどに、「恋愛感情」は人間にとって深く不可解なものだ。
 話を一気に「親鸞」へ持っていこう。親鸞は生涯に一人乃至二人の伴侶があったと言われている。さらに子どもを何人も授かっているのだから、そこに「恋愛感情」があったとも想像できる。もし六角堂(京都・頂法寺)で受けた夢の告げが、「恋愛感情」を切っ掛けにしたものであるのならば、と想像してみたくなる。それは有名な「六角堂夢想偈文」である。「行者宿報設女犯 我成玉女身被犯
 一生之間能荘厳 臨終引導生極楽」(『御伝鈔』真宗聖典七二五頁)。
 これは救世観音菩薩が、お坊さんの姿になって親鸞に告げられたと書かれている。現代語にすれば、「行者よ、もしあなたが宿世の因縁で女性と結婚するならば、私は美女となってあなたと添い遂げましょう。一生の間、あなたを支え盛り立て、この世を去るときには、極楽浄土へ連れて行ってあげましょう。」となるだろう。これはあくまでも夢告だから、理性的に解釈すれば必ず間違いを犯す。それを承知で解釈してみると、夢告の切っ掛けとなった女性は「現実のひと」であっても、その女性を親鸞は、「救世観音菩薩の象徴」として受け取った。結婚生活は性生活を伴うから、親鸞が目の前にした女性は菩薩であり、菩薩となった象徴を犯し汚すことになる。
【なぜ「女犯」が罪とされるのか】
 当時の仏教界では、「女犯」は罪として罰せられた。親鸞は、それを罪として裁かれ越後に流罪となったという説もあるくらいだ。親鸞は「女犯」が罪だと知った上で、あえて結婚に踏み切ったのだろうか。もしその切っ掛けが「六角堂夢想偈文」の夢告だとするとどうなるだろうか。親鸞は、原点回帰のひとだから、なぜ「女犯」が罪とされるのかを問うたに違いない。そして「女犯」が罪とされる前提には、「断煩悩の仏教」があることを突き詰めただろう。
 煩悩を断じることによって覚りを開こうと志向する「断煩悩の仏教」にとっては、「女犯」が罪と見なされる。「女犯」は性的煩悩で、つまり自分の性的満足のために他者の身体を蹂躙することだから、それは戒律で禁じられる。しかし親鸞は、「断煩悩」から、「不断煩悩の仏教」を開いたのだ。
 この「不断煩悩の仏教」にとって「女犯」とはいかなる問題になるのか。それが「菩薩を犯す」という問題である。夢告には「身被犯」とある。これは「菩薩が自ら犯される身」になるという意味だ。つまり、菩薩が「犯してもいいよと言った」と親鸞は受け取ったわけだ。これは『歎異抄』の「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(第十三条)に通底する受け止めだ。この文章は「そのように、避けられざる必然性がやってきたならば、凡夫は、どのような行為でもするものだ」という「絶対他力」の表現である。これは人間の行為の始発点が、自分の思いとは別次元の「絶対的受動性」にあることを示している。
【表層の自己」と「深層の自己」】
 では親鸞は、人間の「自由意志」を認めないのかと言われそうだが、「自由意志」というものも、本質は「業縁のもよおし」と受け取っていただけだろう。こうなると、行為の責任主体は、もはや人間の「自己」にはなく、「阿弥陀さん」にあることになる。自分のあらゆる行為の始発点が、阿弥陀さんからの促しへと意味転換されてしまったのだ。これは「不断煩悩の仏教」だから、「女犯」をしても問題がないと自己肯定しようとする志向とは乖離する。これを自己肯定すれば、いわゆる「造悪無碍」という異端になる。
 親鸞は、自己肯定しようとする意識を「恥ずべし、傷むべし」(『教行信証』信巻)と懺悔している。もはや親鸞にとって、「菩薩」を犯すことが戒律を破るという意味で罪だとは思っていない。戒律を守るか破るか、それをコントロールすることができるという思い(自力のこころ)が「罪」として見いだされたからだ。行為の始発点が、「表層の自己」にはないから、菩薩の促しのままに行為する。誤解を怖れずに言えば、「造悪無碍」も菩薩の促しなのだ。
 ただ、それを親鸞の「深層の自己」は、菩薩を犯す行為として懺悔する。ここに親鸞の結婚生活が、底なしの自己肯定と、それを襲う、底なしの懺悔で彩られていたことが想像できる。実は、この懺悔すらも、菩薩の促しから引き起こされる、温かい「賜り物」だったに違いない。

※タイトルと小見出しは編集部が付けたもの。
※『同朋』の定価は一冊400円。年間購読だと4,200円(税込み・送料無料)で購入可能。申込先は「〒600-8790京都市下京区烏丸七条上る常葉町」宛先は「東本願寺出版」まで。

もともとはお釈迦さんが、「出家」という形態を取ったことから、「女犯」を罪と考える発想が生まれてきたようだ。「出家」とは、在家生活を離れることだが、内面的には、「禁欲」つまり「断煩悩生活」を意味する。欲望の一つとされる「性欲」を断ち切ることで悟りを開こうとしてきた。親鸞以前の仏教は、すべてこの系譜にある。しかし、親鸞は煩悩を断ちきろうとすること、そのものが煩悩から起こってきたことだから、「断煩悩」は原理的に成り立たないと覚めてしまった。親鸞以前の仏教は、「断煩悩」を「菩提心」から起こってくるから尊いことだと考えた。しかし、親鸞はその「菩提心」を「自力の菩提心」と名付け、原理的に成り立たないと見破ってしまった。覚めてしまったところから見えてきたことは、「菩提心」そのものの否定ではない。「自力」を捨てたのであって「菩提心」を捨てたわけではない。言えば、それは〈真実〉を求めるこころを捨てたということではなく、求める方向が180度変わったのだ。「菩提」を〈真実〉と言い換えれば、〈真実〉は自分を始発点として求めるものではなく、〈真実〉そのものが親鸞に求めていることだと覚めたのだ。つまり自分には〈真実〉を求めるようなこころはまったくなく、むしろ〈真実〉が自分をして〈真実〉に向かわしめようと促しているのだと方向が変わったのだ。
それは親鸞以前の仏教が、「仏教(聖なるもの)」と「仏教以外(俗なるもの)」を線引きした境界線が完全に解体されたことを意味する。つまり、「出家と在家」、「自戒と破戒」などの境界線がなくなってしまったのだ。だから「戒律」を守っていれば自分は仏教徒だと自認することができなくなった。親鸞は、人間の作った境界線が幻想だと覚めてしまったから、自分で自分をいかなる意味でも自己肯定することができなくなった。言わば自我が解体されてしまったのだ。それを解体したものは何かと問われれば、〈真実〉そのものであり、それを人格的に呼べば「阿弥陀さん」ということになる。
うがった見方をすれば、「六角堂夢想偈文」は、その解体を象徴していると考えることもできる。性的に相手を犯すという意味が「犯」という文字に含まれているが、それは「さるべき業縁」から促された行為であり、自己はそれこそ「さるべき業縁」によって犯される受動態になる。『聖書』の語るイエスは、姦淫の思いをいだいたものは姦淫を犯したことと同罪だと見抜いている。つまり、「身体的行為」も「思い」も同質だと言うのだ。イエスも「さるべき業縁」を知っていたのだろう。他者を身体的行為によって「犯す」前に、自己自身が「さるべき業縁」によって「犯され」ているのだ。「犯す」ことを「さるべき業縁」と呼んだが、言葉を換えれば、それは「阿弥陀さんからの回向」という意味である。人間の、あらゆる行為や意志や思いや感情は、すべて「阿弥陀さんからの回向」である。だから人間はそのことを抑制することも停止させることもできない。人間にとって、「さるべき業縁」は、「さるべき業縁」が起こった後にしか知らされないからだ。
ここまで根源的に遡って考えると、人間のあらゆる行為が「阿弥陀さんからの回向」になってくる。そこまで降りてくると、我々は、親鸞の取った行為を、「妻帯」とか「結婚」とか「女犯」と命名するのだが、そう言った概念がことごとく粉砕されるように思える。粉砕されたところから見えてきたものが、「観音菩薩と対面する親鸞」だ。いや、もっと正確に言えば、親鸞にとって、「観音菩薩」と受け取られる存在との同伴生活である。「観音菩薩」を前にしたとき、親鸞は自己肯定しようとする意識が炙り出される。人間対人間の関係は、「支配」と「被支配」だ。「支配」とは強烈な言葉だが、優しく言えば、「自分の思い通りにしたいという思い」のことだ。その思いを私は「利害損得心」と名付けている。人間は自分の思い通りになることをのみ欲求する。それは相手も、そう思っていることで、衝突したり、迎合したり、共鳴したりする。相手と諍いが起こった時、それは「利害損得心」が起こしていることに気がつく。気がつくと「懺悔」へと成熟する。親鸞の「恥ずべ、傷むべし」は、菩薩を犯したことによる懺悔ではなく、その底ではたらいている「利害損得心」が自覚されたことへ懺悔である。この懺悔と「利害損得心」による自己肯定がスパイラルになって無限に深化していく。これが親鸞の「結婚」という生活形態から垣間見られる深層構造ではなかろうか。