「段階論」と「永遠論」

親鸞は『教行信証』の証巻に第11願成就文を引用して、「それ衆生ありて、かの国に生まるれば、みなことごとく正定の聚に住す。」と書き下している。ここでは「生彼国者」の「者」を、助字として「ば」と読ませ、「かの国に生まるれば」と書いている。「かの国」とは阿弥陀さんの浄土の意味だから、この国に生まれたならば、みんな正定聚という浄土行きが決定した仲間に入れるのだという意味になる。これは常識的時間論でも読めてしまう。つまり、未来のいつか、浄土に生まれたときには正定聚に決定されるのだと。〈いま〉は決定していないけれども、「いつか」とは未来の臨終を予想している。しかし、この表現はまだ曖昧だと親鸞は感じたのだろう。
それで『一念多念文意』では、「生彼国者」の「者」を「もの」と読んで、「かのくににうまれんとするものは」と記している。「未来のあるとき、阿弥陀さんの浄土に往ってからではなく、たった〈いま〉生まれようと思うものは」という意味だ。こう読むと、彼の国に往ってから決まるのではなく、〈いま〉決まるのだという意味になる。これを「現生正定聚」という。親鸞以前は、未来のあるとき、浄土に往ってから決まると考えていたものを、親鸞は〈いま〉ここでのこととして受け止め直した。
親鸞が「往生」を語るときには、二種類の時間論で語る。一つは未来と〈いま〉を別々に語る「段階論」だ。つまり、信心が確立するのは〈いま〉で、往生は未来のいつか、死んだときという考え方た。これは初めに書いた、「かの国に生まるれば」という理解になる。もう一つの時間論は「永遠論」だ。これは信心が確立するのも、未来の往生が決まるのも「永遠の〈いま〉」という理解になる。この時間論で語っているのが、「とき・日をもへだてず、正定聚のくらいにつきさだまるを、往生をうとはのたまえるなり。」(『一念多念文意』)である。ここでは「正定聚」が決まることを「往生」を得たという意味だとだと語っている。もっと丁寧な表現がある。「真実信心の行人は、摂取不捨のゆえに、正定聚のくらいに住す。このゆえに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき、往生またさだまるなり。来迎の儀式をまたず。」(『末燈抄』)が、それである。信心が決定した〈いま〉、未来の往生も決まるという理解だ。しかし「臨終の時」と〈いま〉を「段階論」で受け取ろうとすると、「信心(現在)」と「往生(未来)」が別々の時間に分断されてしまう。自分が「段階論」に立っているひとは、親鸞も「段階論者」だと見えてしまう。親鸞にも「段階論」を色濃く押し出している表現があるから、やむを得ないことではある。だから、親鸞は「段階論者」ではまったくなく、「永遠論者」だといきり立って抗弁することもない。親鸞自身の表現も、その二つの間で揺れ動いていたのではあるまいか。親鸞は「段階論」を疑わない門弟に向かっては「永遠論」で語り、「永遠論」を疑わない門弟に対したときには「段階論」で語ったのだろう。つまり、弟子が親鸞に向かって、「お師匠、往生は臨終のときであって、〈いま〉のことではありませんよね?」と問うたならば、親鸞は「いや、〈いま〉のことなのだ」と答えただろう。また別の弟子が「お師匠、往生は〈いま〉のことであって、臨終ではありませんよね?」と問うたなら、親鸞は「いや、往生は臨終のときだ」と答えただろう。親鸞は弟子がどちらか一方の時間論に安住しようとする固定観念を解体しようとする。まあ、様々な親鸞の表現から垣間見られるのが、「永遠論」だと言った方が正確かもしれない。またこれがなければ親鸞が親鸞となることのできなかった天下一品の時間論であることも間違いないところだ。もし「段階論」のみで考えていたとしたら、親鸞は「常識」を超えることができなかった。それでは、「救い」が未来のいつかのことになり、決して〈いま〉救われることにはならないから、これは恐ろしいことになる。まあ、そう言うと、「段階論者」は、「救いは〈いま〉ですよ、しかし「往生」は未来の臨終ですよ」などと言い訳をするから見苦しい。いまここで「往生」が完全に実現しないような「信心」は〈真実〉の信心ではないのだ。
このあわいを仏者・安田理深は、こう述べている。「未来とは永遠の時間で象徴したものであるから、象徴を象徴として受け取る限り未来往生ということになる。これは間違いではないが、象徴が象徴性を失ったら未来が死後になる。死後の往生になる。未来往生というのはまだ問題ではないが、死後の往生と言ったら間違いである。」(『安田理深選集』第一巻)
ここに見事に、「未来往生」と「死後往生」の違いが語られている。「死後往生」とは私の言う「段階論」である。信心獲得という〈いま〉と、臨終という未来を段階的に分ける「常識的」な見方だ。一方の「未来往生」というのは、往生が決して過去形に飲み込まれないという信心の表明である。「永遠論」では、〈いま〉往生しているのだ、往生したのだと言いたくなるところだが、それを否定する。なぜならば、人間にとっての、〈いま〉とは過去形でしかないからだ。人間にとっての〈いま〉を正確に言えば、「私が〈いま〉と受け取った」ということだ。つまり、「〈いま〉と受け取った」と過去形でしか表現できないものが、〈いま〉の実相なのだ。こうなってくると、人間にとって〈いま〉とは、瞬間にしか成り立たないようだ。「いま稲光が光った」として、それを人間が語る時には、稲光は消えてなくなっている。その残像が脳裏に残っているだけだ。人間は、それを「いまのこと」と言うが正確には、それはもう過去のことなのだ。〈いま〉という瞬間が人間に受け取られた途端に、過去のことになる。それを私は、「人間は過去しか生きられない」と語ったりした。
それを直感した曽我量深は、親鸞の言う「往生」とは「純粋未来」のことだと語られた。この「純粋未来」という言葉は曽我量独自の表現だが、それにはカントの「純粋理性批判」が切っ掛けになっていたのではないかと思う。曽我量深がカントの翻訳本に接することによって、この「純粋」が「未来」とくっつき、新たな用語として誕生したのではなかろうか。決して過去形に飲み込まれることない「純粋な未来」が「往生」なのだと。それを安田理深は「象徴が象徴性を失ったら」と言っている。これは「往生」が決して過去に飲み込まれることのない出来事だと注意しているのだ。飲み込まれてしまえば、それは「死後往生」になるからだ。だから人間にとって、決して触れることのできない「純粋」な未来に「往生」はあるのだと言う。この「未来往生」と「死後往生」の違いが明確になることを「信心」と言うのだ。
ここまで面倒な地ならしをして、そこから一気に語らせてもらえば、浄土に「生まれんとする者は」と表現することができるのは、浄土に生まれた者だけである。「浄土に生まれんとする」という生の方向性がどこで決定するのかと言えば、それは浄土に生まれたときである。生の方向が決まった〈いま〉という時間から、さあこれから未来に浄土に向かって往生するぞと構えるわけではない。浄土に生まれるという方向性の決まることを「浄土往生」というのだ。これは非常識だ。つまり、目的地に達してしまったときに、初めて目的地を目指すという方向性が与えられるからだ。これは実に面白い。常識的な「段階的」では、目的地と出発点が分裂する。目的地は「未来」、それを目指すのが出発点という「いま」だと。しかし、親鸞の直感したところから言えば、目的地に達したときに出発点が見いだされるのだ。つまり浄土に往生したからこそ、浄土を目指すという方向性が与えられるのだ。もうすでに浄土に達しているのだ。達しているから、浄土が目的になるのだ。こういう非論理的な時間論が「永遠論」だ。
毎度引用する、「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」(親鸞「讃阿弥陀仏偈和讃」)を「永遠論」で見れば、「弥陀成仏」が「弥陀成仏」として成り立つ時間が「いま」となる。「いま」と「弥陀成仏」が同時に成り立たなければ、〈ほんとう〉の救いではない。しかし、それを「段階的」で見れば、「弥陀成仏」と「いま」は分裂する。「弥陀成仏」が「過去」のことに、「いま」は「現在」に。時間が分裂した途端に「往生」が、決して実現しない未来に逃げていく。なぜ実現しないかと言えば、それは時間を「いま」と「未来」に分裂させるからである。この時間論には救いはない。「永遠論」以外に〈真実〉の救いはない。曽我量深も、そのことの重要性を知っていて、次のように獅子吼されている。
「仏さまの本願によって、我々もまた仏さまと同類だということを教えられる。我々のようなものでも仏さまと同類かと言われるかもしれないけれども、本願を聞くと、同類ということが分る。本願ということを別の言葉で言えば、南無阿弥陀仏と言うのでしょう。南無阿弥陀仏という言葉を聞くと、我々は本当に仏さまと同類だということを知らされる。成仏したと言ってもよい。そういうわけではないかもしらんけれども、成仏したと同じことなのです。これ以上、成仏しなくてもよい。もう、これでたくさんだ。何かちょっと足らんところがある、もっと完全でなければならん、などと言うが、私は、そうならんでもいいと思うのです。これでたくさんだと思います。南無阿弥陀仏、これでたくさんであります。」(『曽我量深選集』第12巻)
ここに「仏さまと同類」だと言い、それを「成仏したと同じことなのです。これ以上、成仏しなくてもよい」と豪語させた時間論こそ「永遠論」だ。いままで仏教が最終目的にしてきた「成仏」が、〈いま〉という時間の中に実現している。実現しているから「これ以上、成仏しなくてもよい」という表現が生まれてくるのだ。ここに「未来」が「現在」の中で実現している。しかしこれを「永遠論」からもう少し補っておけば、「成仏」してしまったからこそ、「成仏」を目指す運動が起こるのだ。「成仏」もせずに「成仏」を目指せば、決して「成仏」は成り立たない。「成仏」を目指す始発点は、すでに「成仏」してしまった「十劫」の過去の中にあるのだ。曽我量深の言葉で言えば、「これでたくさんであります」だ。「これでたくさん」だからこそ、永遠に求め続けることができるのだ。不満だから求めるのではない。満足したからこそ、初めて求めることができるのだ。欲望の眼で見れば、そんなことは想像もつかない。不満以外に欲は起こらないと思ってしまう。求めるというのは、そこに微かでも不満な状態があるからだろうと。しかし〈真・宗〉は、そうではない。絶対の満足があるから、永遠に求め続けられるのだ。この満足がなければ、求めようとする志は、決して起こらない。