「自分から」と「自分に」

「生きているのに目的があるか 目的がなかったと分かると〈いま〉が輝く」という「法語」を掲示板に貼ろうと思う。これが「往生」という言葉の暗示していることだと思ったからだ。しかし、これはまだ幼いひとには言えないことだ。幼いひとは、大人から、「大きくなったら、何に成りたい?」などと強迫され、それに応えなければならないからだ。幼いひとは、取りあえず何に成りたいかを応えなければならないところに追い込まれる。しかし、これは強迫に近いのではないか。だから、こう強迫された幼いひとが、「僕は大人に成るけど、大人は何に成るの?」と逆襲したそうだ。大人は無防備にも、子どもは「何かに成るものだ」、「何かに成りたいものだ」と勝手に思い込んでいる。ところが、子どもを見つめていた、その眼が、子どもから逆襲されたのだ。大人は、子どもに向かって問うている間は、逆襲されないだろうと気を許していたのだ。自分を不問にしている間、人間は無責任に何でもペラペラとしゃべることができる。さて「大人のあなたはどうなのか」と子どもに逆襲されたら、ぐうの音も出ない。まあ大人は成りたいものなどないのだ。もう成ってしまっていると思っているから。それも、幼いときに、成りたいと思っていたものとは違うものに成って。成りたいと思っていたものに成れなかった、「成れの果て」が大人というものだ。これを夢が破れたと言って悲観することか、あるいは破れてよかったと安心することか。それをちゃんと吟味しているのかというところまで、子どもの逆襲は効いてくる。自分が何の気なしに、幼いひとに向かって発した問いによって、逆に自分自身が問い詰められてくる。
しかし、こうやって問い詰められたひとをターゲットにして、この「法語」はあるのだ。さて「大人は何になるの?」と問われてみると、大人は応えに窮する。あるひとは、「仏(ほとけ)に成る」と応えたらしい。落語ならば、そこで笑いが起こるだろう。世間では、棺桶の中に入っているひとを「仏」と呼んでいるから、みんな「仏」に成るんだというのは笑い話であるけれども、〈真実〉のことでもある。ただ、大人は誰も、そんな「仏」には成りたくないことだけは間違いない。
こんな大人に向かって提起された、この「法語」は、なぜか分からないけれども明るみを感じさせるのではないか。大人が応えに窮するのは、「生きているのに目的がある」という固定観念が大人を、そう考えさせているからで、この固定観念さえ何とかすれば、何とかなりそうだからだろう。まあ大人は、生きているのに目的がないなどということは、思ってもみないのだ。
 しかし、ひるがえってみれば、身近な日常を生きているときには、そんなことなど忘れているのだ。日々の生活は、次にすることに追いまくられている。食べて、動いて、洗濯して、買い物して、排泄して、寝る。生きることに、つまりは死なないようにと、様々なことに日常は追いまくられている。人間はつねに動いている生き物だ。その動きの中に、ふと立ち止まる一点がある。若い頃は子育てに悪戦苦闘し、子どもが手から離れたら、次には親の介護に追われ、親が息を引き取って、ふと立ち止まってみると、果たして自分は何のために生きてきたのだろうという問いの棘が刺さったりする。
そんなひとに、この「生きているのに目的があるか 目的がなかったと分かると〈いま〉が輝く」は朗報だ。いままでは生きることに目的があるはずだと思って生きてきた。目的のない人生なんか、人生ではないというくらいに思っていた。ところが、この棘が刺さると、そんな思いが崩れ去っていく。「目的がなかったと分かると〈いま〉が輝く」ってどういう意味と問わずにはいられない。面白いことに、人生に目的を立てると、立てた瞬間から、〈いま〉がその目的を達成するための方法手段という思いに変質してしまう。賃金という目的を達成するために、自分の人生を方法手段として提供する。これはおかしいのではないかと直感したひとがマルクスというひとだ。目的と手段に分断されるような社会を人間は望んでいないのではないかと直感した。つまり「したいこと」と「していること」が一致するような社会を作らなければならないと思ったのだ。どう作るかということでは様々な問題があったが、この直感は素晴らしい。ここに〈真実〉ありと、共感する。
これは浄土教徒が直感した問題と同質だ。浄土教徒は、「究極」ということに取り憑かれたひとたちだから、物事を突き詰めなければ気の済まない人間たちだ。「大人は何になるの?」という問いは、この「究極」から生まれてきた問いである。幼いひとの、この問いは、年齢や経験を超越した普遍性に根っこをもっている。この問題を浄土教徒は、「往生」というキーワードを巡って考えてきた。この人生を終えて人間は何に成るのか、そしてどこへ往くのかと問うた。その答えが、人生の究極を阿弥陀さんの国へ往くことと考えた。しかし、これも目的と手段とに分裂する。阿弥陀さんの国を「浄土」と言えば、「浄土」を目的として立てた途端に、〈いま〉がそのための方法手段に変質してしまう。それに飽き足らなかったのが親鸞だ。まず「浄土」を目的として立てる根拠を問うた。つまりどこから「浄土」へ往生したいという思いは起こってくるのかと。この思いを「菩提心」と呼ぶのだが、これが自分の内部から起こってくるものではないと直感した。親鸞以前には、「菩提心」は仏道に入るための大前提になっていた。まず「菩提心」を起こさなければ修行をすることもできないから、「菩提心」こそ宝であると思っていた。しかし親鸞はそれに飽き足らず、「菩提心」にも二つあって「自力の菩提心」と「他力の菩提心」だと言った。「自力の菩提心」とは「菩提心」が自分の内部から起こったものだと考える考え方だ。「自力の菩提心」は、自分が〈いま〉している修行(方法手段)と目的が分裂する「菩提心」だ。
一方の「他力の菩提心」とは自分の内部から起こるものではなく、自分以外の、向こうから迫ってくるものと考える考え方だ。この二つの何が違うのかと言えば、「自分から」と考えるか、「自分に」と考えるかだ。「自分から」目的に向かおうとすれば、必ず目的と方法手段が分裂する。しかし、目を転じて、「自分に」となれば、すべては「自分に」向かってくる。「自分から」出発しようとすると分裂し、「自分に」と受け取れば、統一される。何が分裂し、何が統一されるのか。それは「時間」であり、「空間」である。「浄土」は「自分から」往くものではなく、元来、「自分に」与えられているものだった。
 親鸞は「自分から」という発想を「第19願」だと見いだした。これは行為を意味しない。発想のことだ。人生には目的と意味があるはずだと考える発想を「第19願」と命名したのだ。そしてこの発想が、〈いま〉を殺してしまう発想だと直感した。この目覚めを「第18願」という。「第18願」は、人間の考えるあらゆる目的を解体する。解体してくれるのは阿弥陀さんだ。人生のあらゆる目的を解体して、〈いま〉を与える。阿弥陀さんは人生の意味と目的を分からなくするという御利益を与えてくれる。人生の意味と目的を解体して、安心感で満たしてくれる。「自分から」と発想すると不安になる。それはそうだろう。「自分から」目的に向かっていこうとすれば、果たして目的に到達できるかどうかが分からないからだ。そう思っていた眼が逆転させられるのが「第18願」だ。逆転させられると、いままで「自分から」と発想していた基底が瓦解する。そしてすべてが「自分に」というベクトルに収斂してくる。「自分から」という発想は、「いつか、どこかで、誰かが」と考えてしまう。しかし「自分に」と収斂してくると、「いま、ここ、私」が満たされてくる。これは「時間と空間と主体」の逆流であろう。「自分から」という発想は自分から「時間と空間と主体」が逃げていってしまう流れだ。自分からあらゆるものが流れ出し、ドロドロに溶けてしまう。それが逆転すると自分というブラックボックスに向かって「いま、ここ、私」が流れ込んでくる。この流れの変化を親鸞は「回向」という言葉で感じ取ったのだろう。「自分から」という発想は「自力回向」で、「自分に」という発想が「他力回向」だと。
「往生」というキーワードで語れば、「自分から」いく浄土ではなく、「自分に」届いていた往生だ。もっと言えば「浄土」の中で暮らしていたのかという驚きだ。しかしこんなことを言うと、能天気だと邪推されそうだ。「浄土」という言葉も、「能天気な場所」と思われて差別されてきたから。この誤解を解くために言っておこう。戦争も差別も「浄土」の中の出来事である。だから「浄土」は大悲という悲しみで出来上がっている。もっと突き詰めれば、悲しみという情感も届かないほどの悲しみなのだ。自分と一心同体となって支える悲しみだ。
つくづく、人間は「意味」を貪りたくなる生き物だと思わされる。これを「自分から」という言葉で考えてきたが、この意味づけがことごとく解体されるのが「自分に」というベクトルであり、親鸞が直感した「往生」だ。「自分から」意味づけしようとする触手を切り落とし、常に自分を「いま、ここ、私」で見たそうとする運動だ。もうじき、『「死」観の解体』(講演録)が出るが、人間にとって切実な「死」も客観的な出来事ではなく、ことごとく「死」という観念の問題にある。だから「死」観の解体が朗報なのだ。人間にとっての、あらゆる問題は「客観的」なことではなく、すべてが「意味」という観念の問題だからだ。