もちかえる

「もちかえる」(持ち替える)という言葉が「真宗」のお話には出てくる。これはなかなか意味の深い言葉だ。たとえば、〈真・宗〉の救いとは「このままじゃ」と師が語られたとき、弟子は「このままでよいのですか」と応えたとする。こういう弟子の態度を「もちかえる」と言う。つまり蓮如が言う「得手に法をきく」(『蓮如上人御一代記聞書』137)だ。師の「このままじゃ」という言葉はいったいどういう意味だろうかと弟子が詮索して、「それはこのままでよいという意味ですか」と問い返したという場面だが、これは普通の人間の対話であれば、何も問題がない。ごく常識的な会話だ。しかし、これが〈真・宗〉の救いという意味場で起こっていることになると話は違ってくる。
師の言いたかったことは、人間は宿業因縁のままに動く以外には動きようのない悲しい生き物という文脈だ。しかし、それを弟子は、「このままでよい」という肯定の文脈で受け取った。弟子の「このままでよい」という受け止めは、自己の発想を問うこともない自己肯定の文脈である。弟子は師の「このままじゃ」を、自分の文脈に置き直して、「このままでよいのですか」と問うたのだ。これを「もちかえる」と言う。ただ持ち替えていたのでは、一生、師の意味場には通達しない。
だから師は当然、「このままではない、そのままじゃ」と切り返した。師の「このままじゃ」を師の文脈で受け取れと迫ったのだ。しかし弟子は、「このままではなく、そのままなのですね?」と更に問い返した。それで再度、師は「いや、そのままではない、このままじゃ」とやり返した。それを聞いた弟子は「そのままじゃなくて、このままなのですね」と食い下がった。この「このまま」と「そのまま」の問答は永遠に反復される可能性を秘めている。
師は、弟子が師と同じ意味場にいないことを知っている。だから徹底して弟子の受け止めを否定する。師は意味場の違いを弟子に気付いて欲しいのだ。それなのに弟子は相変わらず、師の表現を自分の文脈に引きずり込んで納得しようとする。弟子は、師の「このままじゃ」をどう受け取っているのか。弟子は、「このままじゃ」を自己肯定の文脈で受け取っている。だから、「五濁悪世」と言われる人間の有り様と、どうしようもない自分の生き様を「このままでも仕方がないのだ」と無理矢理に受け止めようとしている。
親鸞の言葉に置き直してみよう。これは有名な言葉だ。「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(『歎異抄』後序)
弟子は、「このままじゃ」を「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなき」だから、あらゆる人間の所業は「不実」だと悲観的に、厭世的に、刹那的に、妥協的に、虚無的に受け取ってしまっている。これでは師の「ここままじゃ」が「仕方がない」という文脈に置き直されてしまう。師の意味場はそこにはない。師は弟子の「仕方がない」という文脈も十分に理解している。しかし「仕方がない」という文脈と弟子は一体になっていないことを師は知っている。師は「仕方がない」という文脈と一体になって、「このままじゃ」と言ったのだ。「一体になる」とは、あらゆる人間の所業が、自己の内部からの展開であり、噴出だと受け止められるという意味だ。「仕方がない」が自分とは無関係にあるように弟子は錯覚している。だからどこかで、自分は「仕方がない」の犠牲になっていると受け取っている。師は犠牲にされるのも、また犠牲にするのも自分自身だと知っている。自分の内部から「そらごと、たわごと」があふれ出しているからだ。このように受け取らせるはたらきを、「ただ念仏のみぞまこと」と言うのだ。だから「そらごとたわごと」と「ただ念仏」は別のことを言っているわけではない。もし、これが頭の中でふたつの事柄として受け取られているなら、それは弟子の意味場になってしまう。「ただ念仏」は「そらごとたわごと」を否定しているわけでも、批判しているわけでもない。「そらごとたわごと」と自分は一体になれたと安心しているのだ。「そらごとたわごと」を「仕方がない」と厭世的に受け取ってしまうことも、十分に理解している。しかし、それは自分の吐いた唾だから、この唾がやがて自分に掛かってくることも知っている。そして「そらごとたわごと」を突き破って、「そらごとたわごと」とひとつになれたのだ。この安心感が「ただ念仏」だ。
だから師は「このまま」でよいと自己肯定しているわけでも、「このまま」ではダメだと批判しているわけでもない。この肯定と否定を超えたところから、「このままじゃ」と語られたのだ。師は「そらごとたわごと」を感じては、相変わらずため息を漏らしている。しかしこのため息は、親鸞が漏らした「噫(ああ)」(『教行信証』総序)というため息と重なっている。「噫(ああ)」は、「そらごとたわごと」には、絶対に「まことあることなき」だぞと知らせてくる悲愛を浴びたところから漏れている。自分が現状を見て「そらごとたわごと」だと絶望しているのではない。この「そらごとたわごと」は人間が使える言葉ではなかった。これは阿弥陀さんだけが使うことのできる真理の一言だと、自分と分離されたのだ。分離されると、今度は「そらごとたわごと」」が阿弥陀さんから人間に降りかかってくる「教え」に変質する。いままで愚痴のように使っていた「そらごとたわごと」が、阿弥陀さんから降ってくる悲愛の言葉になる。これが師の言う「このままじゃ」だったのだ。