〈真実〉から生まれ、〈真実〉に還る

またひとり、愛しい先輩が息を引き取られたと知らせがあった。年を取るということは、「老病死」という現事実を、たくさん見せつけられることだと、年を取って、初めて知らされる。若いときには、年を取るということは、いろいろな意味で穏やかになっていくことだと漠然と想像していたが、これは逆だった。年を取るということは、いよいよ「老病死」が剥き出しになり、生々しく襲いかかってくることだった。
しかし、それはいささかも悲観することではない。愛しい先輩は、「老病死」という〈真実〉を見せつけてくれたのだから。先輩は〈真実〉から生まれ、〈真実〉に還って往かれたのだから。人間界では、「老病死」が忌避されるような忌まわしい事件だと邪推しているが、〈真・宗〉から見れば、それは間違いだ。「老病死」には〈真実〉が宿っている。つまり、「老病死」には一つも人間の「思惑」が混じっていないと言うことだ。厳粛なるいのちそのものの展開である。もともと人間は、このいのちそのものの展開として生を受ける。しかし、いつしかこれを、「思惑」の中に閉じ込めてしまう。「我が物」という「思惑」に閉じ込めて、これだけにしがみついていこうとする。しかし、もともとのいのちは「思惑」が起こる前から、いのちそのものとして、「思惑」を超えているのだから、究極は、「思惑」を抜け出して、いのちそのものに還っていくのだ。
人間界では、先輩が息を引き取られたことを「死」というレッテルを貼って、それですべてが済んだように、澄まし顔になっている。しかし、「それが〈ほんとう〉でしょうか?」といのちそのものは問いかけている。「あなたが知っている『死』とはいったいどういうことでしょうか?」と追及してくる。「あなたは『死』と『生』を分けて、『死』を知ったような顔をしているのではないですか?」「それで〈ほんとう〉に『死』が分かったことになるのでしょうか?」「それはいのちの半分しか知ったことにはならないのではありませんか?」「いのちそのものは『生』と『死』と分けることはできないのではないですか?」そうやって追及してきて、ようやく先輩の「死」を、「死」という人間界の偏見から解放してくれる。
あらためて、先輩の「死」を憶うと、やはり、先輩は〈真実〉から生まれられたんだ。そして私に〈真実〉を見せつけ、〈真実〉そのものとひとつになられたのだと思わされる。だから人間の「思惑」を超えた世界へ往かれたのだ。人間界にとっては、寂しく悲しいことであるに違いない。違いないのだが、それは〈真実〉へと還っていかれる人たちの常套手段だ。先立たれた人間たちに、おれを「死」んだと思うなよという警告である。「死」というレッテルと差別を解体して、〈ほんとう〉のおれと出遇い直せと迫ってくる。
〈真実〉は、人間の出す「結論」を徹底して解体する。臨終の一念にいたるまで解体する。