聴覚がなければ、私には「音の世界」はなかった。視覚がなければ、私には「ひかりの世界」はなかった。聴覚も視覚も、私がこの世と関わることのできる唯一の感覚器官だ。だからもし、この二つの器官がなければ、私には「音」も「ひかり」もなかった。そればかりでなく、さらにそれらを統合する「意識」という感覚器官がある。これが、この世と接することのできる唯一無二の感覚器官となっている。それを唯識では「意識」と呼ぶが、この表層の「意識」を、その下で支えているのが「マナ識(末那識)=自我意識」だと発見した。親鸞の言葉で言えば「自力のこころ」であり、私の言葉で言えば「利害損得心」だ。これは人間が考える「悪いこころ」というマイナス評価を言っているわけではない。実に単純で、透明で、自分でも意識することのできない人間特有のこころのことである。例えば、私が外界を見ていて、そこにリンゴが置かれていて、「そこにリンゴがある」と見ることを下支えしているこころである。だから「意識」では見つけることのできない「深層意識」だ。リンゴがあると見えるのは、客観的な事実であって、そこに「マナ識」が関わっているなどとは、少しも思えないのが実感だ。そこに主観が介在する余地はない。リンゴは客観的に、そこにあるのだと強調さえしたくなる。「マナ識」を抜きにすれば、そういうことも言えるのだが、そこに私が関わっていなければ、「そこにリンゴがある」と認識する主体もないのだ。私は視覚という器官でリンゴをリンゴとして見ているが、正しく言えば「リンゴを見ている」のではなく、「リンゴとして見えている」のだ。「見ている」のは「意識」だが、「見えている」のは「マナ識」のはたらきである。譬えれば、「マナ識」は、透明な眼鏡のようなもので、私たちには意識することのできないフィルターである。そこに〈真実〉という言葉を持ち出せば、私たちが外界として認識している世界は〈真実〉ではないことになる。外界は「マナ識」を抜きにしては成り立たないからだ。もっと言えば、私たちは、「マナ識」で受け取った世界を〈真実〉の世界だと錯覚しているのである。このように受け止めてこそ、そこに「救い」はある。もし世界が客観的に存在するものであり、主観を抜きにして強固に成り立つものであれば、何ものも変更することはできない。だから唯識でも「転」という言葉で、「救い」を説く。唯識の言う「転識得智」(識を転じて智を得る)とは、世界は客観的なものでなく、「マナ識」という主観が受け取った仮想空間だと目覚めることである。親鸞の言葉で言えば「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(『歎異抄』後序)である。「そらごとたわごと」と「念仏のみぞまこと」は別々のことを言っているわけではない。いままで〈真実〉だと思って見えていたものが、「そらごとたわごと」だったと目覚めたことを語っているのだ。「ただ念仏のみぞまこと」とは、目覚めをうながしたはたらきだけが〈真実〉だという意味だ。自分に見えているあらゆる世界が、「そらごとたわごと」だと教えられたら、これは「救い」ではないか。もちろん「死」も「そらごとたわごと」だからだ。
この「そらごとたわごと」という言葉も、偏見で差別されてきたのではないか。「そらごとたわごと」とは自分にとってどうでもよいこと、仮事であって、大したことでもなく、捨てておいてもよいものというふうにして。それは見くびりである。「そらごとたわごと」とは、〈真実〉からのみ与えられる賜物である。〈真実〉は「お前の見ている世界は客観的なものではないぞ、〈真実〉ではないぞ」と悲しみながら批判して下さる。これは絶対否定という悲愛からのプレゼントだ。
私たちは、長い間、世界は無色透明で客観的な世界だと思い込まされてきた。それこそが客観的真実であって、人間の主観は介在していないと排除されてきた。ところが、そうではないのだ。いまこそ、世界を奪還するときではないか。私を抜きにして世界はなかったと。むしろ私が受け取った世界こそが世界であり、それは私と溶け合っているのだと。私が受け取った世界のみが、世界であるならば、世界と私は同質のものではないか。ようやく沈丁花の花弁がほころんで、あの何とも言えない香りを放っている。これも世界の表れだが、その沈丁花が私であっても何ら差し支えがなかった。私が沈丁花であり、沈丁花が私であってもだ。沈丁花も私も、ともに宿業因縁でそうなっているだけで、二人を分ける決定的な要因は見つからないからだ。これが世界と世界が融合している実相である。
さて「世界」を奪還できたならば、次は「時間」を奪還に行こうではないか。客観的な時間などはどこにもないのだから。