従果向因

〈真・宗〉は、ここに真実あり、ここに来て、このことを聞いてくれというものではない。むしろ、ここに来る前にあなた自身の足下を見よ、もう真実の中にいるではないかと覚ますものである。そこに行かなければ晴れないようなものであれば、間に合わないのだ。「二河の譬喩」でも、お釈迦さんは行けという。こっちに来いとは決して言わない。お前自身の、すでに立っているところを掘り下げよと。そこに〈真実〉はあるのだという。私はどこかに行けば助かるように思ってしまうのだ。これも「動物」の性だ。動いて向こうに行けば、何かがあると思ってしまう。天竺を目指した求道者たちも、そう思ったのだろう。しかし、親鸞にはそんな素振りはまったくない。行くという言葉を使えば、汝の立っている足下に行けというのだ。もうお前は〈真実〉の中にいるのだと迫ってくる。〈真実〉の中にありながら、〈真実〉はどこにあるのでしょうかと探し回っているだけだ。
〈真・宗〉は「従因向果」ではなく、「従果向因」だ。「従因向果」(因より果へ向かう)は一から始めて十を知るという常識だ。毎日少しずつ修行してやがて覚りを得るという常識だ。それだと現在はつねに未完成になる。しかし「従果向因(果より因へ向かう)」は、もう完成してしる中にあることに覚めることだから、一気にここで成り立つ。これは非常識だ。「従果向因」は、現在が完成体だ。言えば、もう救われた状態の中にある。そのことに一気に覚めるのだ。救われた状態とは、宿業因縁で成り立っている〈現事実〉の状態のことだ。禅宗では、それを「眼横鼻直」という。顔には眼が横並びについていて、鼻は縦についている。この当たり前の状態に完成体を見る。そこに完成体があるのだから、人間がこざかしく何かを意志的に作り出そうとする必要がない。作りだそうとすれば、それは「従因向果」になってしまう。完成体の中にありながら、それに飽き足らず、自分を未完成に追い込もうとする。実は、自分が未完成だと見えるということは、完成体をどこかで知ってしまったということではないか。完成体を知ってしまったから、自分は未完成だと発見できたのだろう。完成体を想定しなければ、自分が未完成だということにも気づけない。だから自分が未完成体だと知らされたときには、もうすでに完成が成り立つ。つまり未完成と完成が同時に成り立っているのだ。完成なしに未完成はなく、未完成なくして完成はない。これが「従果向因」の見方だ。
親鸞の意味空間に置き直すと、「往生(果)」が決まったときに、「信心」(因)が決まったということだ。それは同時に「信心(因)」が決まったときに「往生(果)」が決まったということだ。「信心」と「往生」は別のことではない。「信心」とは「さあこれから」であり、「往生」は「もう済んだ」ということだ。「もう済んだ」という完成体を根拠にして、「さあこれから」が生まれてくる。いつでも結果は「もう済んだ」になっているではないか。気がつけば、目が覚めていたのだ。目を覚まそうとして目覚めるひとはいない。いつでも目が覚めたという結果があって、「ああ目が覚めたのか」と気付くだけだ。いつでも我々には「結果」しか教えられていない。そこが生の基点だ。その基点から、目が覚めて「さあこれから」と動いていく。「さあこれから」は、必ず「もう済んだ」の基点に立った上でのことだ。この「もう済んだ」は宇宙が終わったところの時間だ。宇宙が終わったところを基点にして、そこに立って初めて「さあこれから」が動き出す。
先ほど、若いお坊さんの遺体と対面してきた。彼は「もう済んだ」という顔をしていた。後は、この「もう済んだ」ことを生きている人間がどう受け止めるかだけが残されている。まあ自分も、気付かないうちに「もう済んだ」になっているのだ。「もう済んだ」という基点から、まだ済んでいない「さあこれから」を辛うじて演じている。