若い坊さんの通夜説法を、お兄さんから依頼された。断ろうとする意識も浮かばず、即座に引き受けた。本当は、彼に対して、何も言うことはないのだ。またどんなことを思って、どんな言葉を吐いても、そんなものは彼とは無関係のことなのだ。だから引き受けられたのだろう。もし私の語る言葉が、指一本でも彼に触れているものであれば、そんな恐ろしいことはできるはずがない。そんな傲慢なことは許されるはずがない。先立たれた家族は彼を失い、悲しみと苦しみに晒されながら、往くしかない。何を思っても、仏さんと成った彼には通じないのだから。つくづく、この世は〈私一人〉を教育する阿弥陀さんの学校だと思わされる。この世に生み出されたときから、いやそれ以前から、阿弥陀さんの教育を受けてきたのだ。
彼はこう言うに違いない。「当たり前だろう。この世に誕生したことが死ぬ原因なんだから、何で俺が死んだんだと聞かれても、生まれたとしか答えられないだろう」と。確かにそうなのだ。それ以外に答えはないのだ。これがいのちの実相なんだから、これに対して先立たれた者たちは、「その通りです」と応えるしなかい。拒否してみても、その拒否は自分に向かって跳ね返ってくるだけだ。「何で、どうして」という彼に向けた問いは、そのままそれを問うた人間に跳ね返ってくる。まあ、それが阿弥陀さんの教育なんだ。きつい教育なんだ。そこからは自分一人が阿弥陀さんと格闘問答をする以外にない。
彼は物理的に見れば一人だが、関係性から見れば、彼が関係した人間の数だけ彼は存在する。つまり、百人と関係があれば、そこには百の彼が存在したことになる。百の関係の中に彼が百人いたのだ。だから彼はどんなひとだったのかと聞いてみれば、百の彼が出てくるはずだ。親しいひとから、そうでもないひとまで、様々な彼がいたはずだ。でもそれはすべて「方便の彼」であって、「真実の彼」ではない。「真実の彼」は誰の目でも捉えることはできない。「真実の彼」は、彼を受け取ろうとする人間の指の間からスルスルと漏れてしまうからだ。「真実の彼」とは仏さんの彼だ。そうなると、「人間の彼」自身も、本当の彼は見えていなかったのかも知れない。自分とは何ものなのか、それは自分自身にとって最大の謎だからだ。「人間の彼」に聞いてみれば、「えっ!俺、死んだんですか?」と応えるかも知れない。だからまだ彼は自分が死んだことに気付いていないかもしれない。人間の彼は、彼自身を脱ぎ捨て、ようやく「真実の彼」に統合されたのだろう。
酷いことを言うようだが、本当は彼のことなど誰も切実には考えていないのだ。みんな自分自身のことにしか関心がないのだから。それは皮肉を言っているわけではなく、人間の実相を言っているだけだ。だから自分自身の中に住んでいる「方便の彼」を彼だと思って、悲しんだり驚いたりしているだけなのだ。それしか人間にはできないのだ。しかし、そんなところに「真実の彼」がいないことだけは間違いない。そこに帰されてようやく、彼と横並びになれたような気がする。彼を向こうに置いて追悼するという関係ではなく、彼と横並びになって、同じように前を向いて座っている。横並びになって前を向いていれば、彼は私の視界には入らない。しかし、そこに彼の存在を眼で見るよりも近くに感じることができる。どうやって感じ取れるのか。それは彼が私自身と重なって感じ取られるのだ。私も彼と同様に、自分自身の見えない存在だから。自分にとっては、自分とは何ものなのかが分からない存在なのだ。このことに気付いて、ようやく横並びになれた。
目の前には、やはり、阿弥陀さんしかいないのだ。一人一人が阿弥陀さんと格闘問答する以外にない。四苦八苦から人間は逃れることができないが、逃れられないということでお終いではない。四苦八苦が阿弥陀さんの教材だから、必ず「第三の扉」が開かれる。
私は私という存在から一ミリも逃れることができない。一生ついてまわるのが自分自身だ。これを「自我意識」というが、自我意識も自分を超えているから阿弥陀さんの教材だったのだ。だから安心して悲しみうろたえていこう。その悲しみも、うろたえも、自分を超えた阿弥陀さんの教材だから、必ず「それで?」と問い返される。この問い返しにだけ、人間は救いを感じ取れるのだ。