家族とは、仏さん直前の存在

昨夜、お連れ合いのMさんから電話を頂いた。若干50歳の旦那が、突然亡くなったと。まさに突然死だそうだ。電話をいただいた私は、ただ茫然自失で、驚くばかり。彼女に返す言葉もなかった。養子先のお寺の報恩講にも呼ばれていたので、携帯にかかってきた電話を見て、また報恩講の出講依頼だろうくらいの気持ちで、私は出た。ところが電話の声は女性だった。そこから私は「?」という気持ちになって、次に語られる言葉を、まさに「藪から棒」で受け止めた。人間は「まさか」という限界状況に出遭うと、驚きばかりで、悲しみにまで落ちていけないものだと唖然とした。電話を切ってから、まだ私の中に留まっている彼の仕草や言葉や映像が次々と浮かんできた。彼と話していても、彼はなかなか言葉が即座に返ってこない質で、小生がヤキモキさせられる場面が多々あった。こっちの言葉を聞いているのかどうか分からなくなるときもあった。しかし、彼は私の話をちゃんと聞いていて、やがて応えが返ってきた。こっちの言葉が発せられてから、返ってくるまでの時間差があるので、ヤキモキさせられた。小生は気が短い質だから、余計にヤキモキしたのかもしれない。ヤキモキさせられて応えが返ってこないので、彼のほうを見ると、彼はどこか「こころここにあらず」というふうな顔つきで沈黙していた。「お前、いま、現世にいるのか?」と問いかけたくなるような気持ちになった。
しかし、何を思おうと、そんなことは彼にはまったく関係ないのだろう。彼は人間の身体を脱ぎ捨てて、仏さんに成ってしまったのだから。何を思おうが、泣こうが喚こうが、そんなこととは絶縁した世界にある。人間界にある我々だけが、あたふた右往左往するだけだ。我々は、現世で、仏さんに成る前の人間と関係しているだけだ。家族とは、仏さん直前の存在だ。まあそんなことは口では言えても、現実には、そんなことは思えないのだ。向こうもまだ現世の人間界にいるのだから、お互いに「人間」としてだけ付き合ってしまう。しかし、その本質は仏さんなのだ。仏さん以外ではないのだ。この本質が「まさか」で顔をあらわにする。先立たれた人間たちは、人間界の習いによって、泣き喚き、あたふた右往左往する以外にない。いま現世にいる人間たちは、「先立たれた人間」以外にはなれないのだ。
坂木恵定さんならば、「それでええがや」と応えられるかもしれないが、そんなことを受け入れることができないのも人間だ。坂木さんの「それでええがや」は、その言葉だけがあるわけではない。「それでええがや」はさくさんの苦渋をジャンピングボードにしているのではないか。つまり、「それでよいはずがない」という苦渋が、その言葉の背景には張り付いているのだ。この苦渋たちの力がなければ、「それでええがや」は空砲みたいなもんだ。人間界の本質を突き詰めれば、「それでよいはずがない」ということだ。老・病・死は誰にでもやってくる限界状況だから、これを逃れられるひとはいない。それらが顔を覗かせるのは、いつでも「まさか」以外ない。だから、人間の思いは必ず、「それでよいはずがない」だ。
彼がいなくなって、やがて悲しみがやってくる。それは彼と私との間に起こる感情だが、やはり、それは私個人の上にしかないのだろう。彼がそのことをどう思うかということとは別次元にある。もはや彼は仏さまなんだから、人間界の言葉も思いも通じない。先立たれた人間は、先立たれた人間のように振る舞う以外にない。そしてそのこと全体を、どう受け止めるかを、〈私一人〉が阿弥陀さんと対話していくしかない。対話は絶対の孤独以外にしか成り立たない。
これは当たり前過ぎて口にするのも嫌になるが、この世全体は、〈私一人〉だけの世界であり、この世を「生きている」のは〈私一人〉以外にはないのだから。