門・聞・問

「真宗入門講座」に出講してきた。これは表看板で、その下に「推進員前期教習」と書かれていた。なぜ二枚看板になっているのかと聞いたところ、以前「推進員養成講座(推進員前期教習)」と一枚看板でひとを募集したところ、応募者がゼロだったという。そこで応募したくなるような名前を考えて、いまでは「真宗入門講座」と名付けているらしい。「真宗入門」であれば、自分のようなものでも参加してよいのではないかとほのめかされるのだろう。初心者でも参加できるのではないかと誘引される。中でやっていることは同じであっても、看板を変えれば、ひとは集まるのだから、不思議なものだ。お店でも、「閉店セール」と書かれていると、ついつい品物が安いのではないかと思って店に入りたくなる。しかし、いつまでたっても閉店しないのだ。それで分かってしまうのだ。「閉店セール」という看板は集客の方便だったのだと。いわば、「真宗」が開催するどんな集まりであっても、その開催趣旨を突き詰めれば、ことごとく同じである。御遠忌であろうが、葬式や法事や、〇〇講座であろうが、報恩講であっても、それは「南無阿弥陀仏」だ。つまり、自分が阿弥陀さんに遇うということだけが趣旨なのだ。だからどんな看板を掲げてもよいのだ。それでひとが集まるものならば、いろいろな工夫を凝らすべきだろう。例えは悪いが、ルアーフィッシングみたいなものだ。魚が食べたくなるようなルアー(疑似餌)を釣り糸に付け、魚を誘い、それに食いついた魚を釣り上げる。最初は魚もルアーに興味を引かれ、釣り上げられるのだが、徐々に釣れなくなる。これを釣り人は「スレる」と表現する。スレてくると、また新しいルアーに付け替えては魚を騙す。釣り人と魚の騙し合いがルアーフィッシングだ。そういう私も、ルアーフィッシングに騙されて釣り上げられてしまったひとりだ。ところが何に興味を引かれて誘引されたのかと問うても、明確な答えが見つからないのだ。明確なルアーがあったわけではない。あったわけではないのに引きつけられていった。これは「引力」のようなものだろうか。物を落とせば地面に落ちる。我々には「物が落ちる」と感じられるが、地球から言えば、それは地球が引きつけているのだそうだ。それを「引力」という。自分では意識することもないが、この「引力」がはたらいて、私は〈真・宗〉に吸引されていったようだ。まあ寺に生まれさせられたということも、「引力」の一つのはたらきだった。
この「真宗入門講座」というタイトルも意味の深い題名だ。表面的に見れば、これから〈真宗〉へ入門するための初心者の講座という意味になる。しかし、果たして「入門」とはどういうことかと問い始めると、一筋縄ではいかない言葉だ。そもそも「門」とは何か。どこかにある門ならば、それをくぐることは簡単だ。浅草の浅草寺にも風神・雷神の、通称「雷門」という山門がある。物理的な門は簡単に入ることができても、〈真宗〉というこころにある門はなかなか入るのが難しい。だから「あなたは〈真宗〉に入門しているのですか」と問われると、果たして入門しているのかどうか分からなくなる。講座に申し込み、受講料を支払った段階で「入門」したと言えるのならば簡単なのだが、そうも言えない。
私は、すぐに究極に登り詰めてしまう質なのだが、登り詰めたところから言えば、「門即信」だと思っている。だから門が見つかれば、それがすべてである。門が見つかれば、くぐる必要はなくなる。門が見つかれば、門に入ろうとする必要はなく、むしろ入ろうとする前に、すでに入門していたことに覚めるのだ。「入門」というと、これから入門するように思ってしまうが、〈ほんとう〉は「門」が見つかってみれば、もうすでに入門していたことに目覚めることだ。それも「十劫」の昔に入門していたとは。「入門」とは、さあこれから入門するぞという思いよりも前に、入門していた事実に驚くことなのだ。門が見つかっていないと感じるひとには、門はこれから入門するべき門と見えてしまう。しかし門が見つかったひとにとっては、門が消えてしまい。元々、門の中にいたことに覚める。それは物理的にもそうだろう。雷門を入門してくぐってしまえば、もはや「門」は見えなくなる。見えているのは仲店商店街の光景である。
「門」の中に「耳」が入れば「聞」となる。〈真宗〉は「聴聞」に極まるというが、「聴」は耳をそばだてて聞くという意味だが、「聞」は門にたたずむと、向こうから聞こえてくるものを受け取るという意味だ。「聴」は能動、「聞」は受動だ。親鸞は「『聞』と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。」(『教行信証』信巻)と定義する。門にたたずんでいたら、向こうから「聞こえてきた」のだろう。とても自分に聞く力などはない。ただ向こうから、「聞こえてきた」のだろう。阿弥陀さんは、お前だけを救うと。何で阿弥陀さんが本願を発したのかと言えば、それは他ならない、この私を救うためだったのだと。他人事ではなかったと聞こえてきたのだろう。そう聞こえてくることを「信」というのだ。だから親鸞にとって「信」とは「聞」そのものなのだ。散々、他人事ではない私自身が救われることだと聞いてきても、どうしても「私」と「救い」がバラバラになってしまう。私が考える私と、私自身とが分裂してしまうのだ。〈ほんとう〉は、私という思いも解体され、救いという観念も解体され、私と救いがひとつになり、救いと私とが融合してしまわなければならない。それは恐ろしいことだが、自分という思いを突き破って、阿弥陀さんが顔を出すことだった。この自分という思いも、自分を超えている阿弥陀さんからの促しなのだ。阿弥陀さんが「自分」という噴火口から噴出してあふれ出す。こうなれば、救いなどという観念も不要になる。果たして「入門」とは、どういうことなのかと。また新たな問いの前に立たされるのだ。そうそう、いま書いて面白いと思ったのは、「門」の中に「口」を書くと「問」という文字になった。これも面白いものだ。門にたたずんで、はてなはてなと口ずさむのが、「問」なのかもしれない。「門」と「聞」と「問」がコラボレーションして、法味がますます深まっていく。汲めども尽きぬ法の海とは、このことなのだろう。