2019年の報恩講法話ツアーが終了

昨日の専福寺さんで、ようやく今期の報恩講法話ツアーが終了した。
話している間、私はどこにいるのだろうかとフワフワとした感覚になった。闇というと、ちょっとおかしいが、向こうの方から「関心」が降ってきて、それに対して私が応答している姿だった。
何かを待っていると、向こうからやってくる。そしてそれに対してあれこれと言葉が生まれてくる。その言葉が口から出ることによって、再びその言葉に応答している自分がいる。あるいは、その言葉をそのまま放置しておき、次の「関心」への応答と移っていく。そうやって、「時計」に目をやると、この世の「時間」が過ぎていたことに気づく。
あの法話の時間は、「時間」というものとは違ったものが流れている。
やはり、ご本尊があるので、その前なら何を言ってもいいのだという安心感があるのかもしれない。それも後付けだが。
いままでは親鸞を「上」に置いていたので、親鸞の発想の内部に居なければならないという縛りがあった。しかしいまは、その縛りも解かれ、自由に法性の世界を遊んでいるようだ。親鸞は「上」におらず、「横」におられることを発見したからだ。
たとえ親鸞聖人が、そのようにおっしゃったとしても、それは親鸞と阿弥陀さんとの対話から生まれた言葉であって、私とは関係ない。私は私と阿弥陀さんとの対話の中で言葉が生まれてくればよいのだ。
だいたい親鸞が、そのように表現したとしても、どういう気持ちでそれを書かれたか、本当のところは分からない。ただ、私たちは親鸞は「分かっていたひと」とレッテルを貼り、「分かっていたひと」の表現だと、勝手に思い込み、その表現に自分が反応しているだけだ。もし理解不可能な表現があれば、それは我々が劣っているからで、親鸞は「分かっていたひと」だから、私たちには至り得ない境地にあったのだと「思い込んで」いくのだ。これが「劣等感教学」の辿ってきた道だ。
結局、自分と阿弥陀さんとの対話応答を中心にするのではなく、「分かっていたひと」親鸞という固定観念と自分が対話していただけなのだ。そうやって「分かっていたひと」というマインドコントロールから解かれていった。
いかなる「権威」というマインドコントロールから解かれるためには、やはり〈一人一世界〉への覚醒以外にない。「権威」に自分を委ねるのではなく、本当の〈自分〉を取り戻す。自分が感じ、自分が考えている、そのとき感じたこと考えたことは、私自身にしか起こらないことであり、それ以上でも以下でもない。万劫の初事であり、空前絶後の〈現事実〉だ。
この〈一人一世界〉は、この広い宇宙で、「生きている」と間違いなく言えるのは「私一人」だけだという、単純すぎるほどの事実。
〈一人一世界〉の中に、あらゆる人間も事物も宇宙もある。私と宇宙が一体となった〈一人一世界〉。この宇宙=私現生の内部で、さまざまなことが展開している。皮膚で包まれたほうが私ではなく、環境=身体となった私が〈ほんとう〉の私である。
そうなると私の眼は、私の内部を見るためにあるのかもしれない。
まど・みちおさんの「けしき」が浮かんだ。

けしきは
目から はなれている
はなれているから
見えて
見えているから
けしきは そこに ある
あの雲の下に つらなる
山々の けしき
Sのじをかいて 海へとはしる
川の けしき
けしきの うつくしさは
ひかるようだ
よんでいるようだ
いたいようだ
見るものから
いつも
はなれていなければならないからだ…
自分が そこに
ほんとうにたしかに あるために…

この「けしき」とは阿弥陀さんのことだといただいた。
本当は「けしき」は見ているものと一体になりたいのだ。そこに「よんでいるようだ いたいようだ」とある。ここに阿弥陀さんが私と一体になれない悲しみを表現している。
「けしき」が目と離れているのは、一体であることを教えるためなのだ。阿弥陀さんと私が一体であることを教えるために、あえて離れているのだ。それは阿弥陀さんにとって、痛いほどの悲しみである。
しかし、そこに〈一人一世界〉を独立させるための、
悲しみに違いない。