未知なる自己

私は、この世界を漠然と眺めている。日本海側の大雪を、さぞや大変なことだろうと眺めている視座。ウクライナ問題に、こころを悩ませている視座。コロナウイルスを不安な思いで眺めている視座。ニュース番組を眺めながら、一喜一憂している視座。一つ一つの問題に徹底的に24時間関わっていけば、自分は振り回されてしまう。様々な問題があろうとも、自分は如何ともしがたい気分のまま、夜になると床に就いて静かに眠る。
それにしても、世界をそのように「統一的」に眺めることのできる視点、つまり「視座」があるということは実に不思議ではないか。どれだけの情報を知ったとしても、それを統一的に眺めている「視座」、それを仮に「自分」と名付けているのだろう。しかし「自分」というモノがあるのかと分析してみても、実体があるわけではない。肉体の細胞を微細に分析しても「自分」というものはどこにもない。現代の科学でも、そして仏教が見つけ出した「縁起」という原理でも結論は同じだ。すべては関係性で成り立っていて、どこにも実体はないと。実体はないのだが、「自分」はどこかにあるように思ってしまうのも不思議なことだ。それは脳が操っているのだと言うが、脳も分析してみれば無実体だ。
この「自分」という視座は、自分という肉体が誕生してから、一度も肉体から離れたことがない。肉体は新陳代謝を繰り返して、ハードの面は変化しても、「自分」というものは不変である。だから「昨日の自分」と「今日の自分」は同じだと考えている。その上、「自分」は求心性をもっているから、なお不思議だ。つまり「自我の遠近法」を持っている。世界はバラバラにあるわけではく、「自分」という統一的視座で統合され、それらに遠近法がはたらく。つまり「自分」にとって関心の強いものは近くに、関心の弱いものは遠くに置く。そうやって「自分」は「自分という国」を作っている。この国で一番偉いのは「自分」である。「自分帝国」の支配者は、まさに「自分王」である。「自分」は「見る」という行為も、物理的に、機械が映像を映すように見ているわけではない。「見る」という作用は、眼という器官がつかさどるのだが、眼が見ているわけではなく、眼を通して「自分」という意識が見ているのだ。だから「見る」という行為が成り立つときには、そこに「自分」という意識の取捨選択が自動的にはたらいている。「自我の遠近法」というフォーマットの上で、はたらくのだ。
だから「見る」という視覚の行為は支配力を持っている。ひとを含めて類人猿は、「見る」という行為で支配関係を築く。チンパンジーは自分よりも強い相手に出会ったときには視線を逸らす。相手を直視することは相手の支配力と拮抗するから、それを弱者は回避して危害を受けることを減らそうとする。ニホンザルの場合でも、サル山には「サルと目線を合わせないで下さい」と立て札が置かれている。サルは人間に見つめられると、真っ赤な顔で怒り出す。人間にとって相手を見るということは、そこまで権力的なものだとは意識されていないが、サルは視線を恐怖として受け止める。見つめられることは、相手に力でねじ伏せられるくらいの圧迫感を受けるからだ。人間は「見る」にそこまでの力がはたらいているとは感じられないだろう。類人猿ならば、誰もが感じられる「見る」という行為の権力感覚が鈍化してしまっているのだ。それでも高貴なひとと身分の低いものが会うときには、「目線を下げろ」とか、「頭が高い」という言葉があるのだから、やはり直視の力関係は意識されていたのだろう。チンピラが「眼をつける」などといって喧嘩をするのも、やはり、類人猿の感性が生々しく残っているからだろう。相手と話をするときには、相手の目を見て話しなさいと躾けられるようになったのは、西洋文明の影響が色濃く入ってきてらかだろう。日本人には、まだ「見る」という感性に対する微細な野生が残っている。間違いないのは、「視覚」は支配の装置であるという紛れもない事実だけだ。
それはともかく、この「自分」という得たいの知れないものは、まだまだ未知の部分をもっている。テレビで熱々のご飯に生卵を割って掛ける「卵かけご飯」の映像が流れた。私は即座に「美味そう」と思ったが、娘はそうは思わないという。娘は「卵かけご飯」が嫌いだからだ。生卵を人間は「食べ物」として分類して食べているが、あれは本当を言えば、「食べ物」ではなく「生き物」だ。調理された卵は、卵焼きでも目玉焼きでも、黄色くて美味しそうな食材だが、調理される前の「生き物」の状態は、人間にとって様々な感情を引き起こす。あのヌルヌルとした卵の食感は、「生き物」が自分の口中で蠢いている胎動のようにも感じてしまうのだろう。だから生卵を嫌いなひとは以外に多い。これも「自分」が人類という存在になるまでに経過してきた、内臓感覚の遍歴を表しているのかもしれない。しかし、味覚も変化するので、それが固定しているものでもない。子どもの頃食べられなかったピーマンやウナギが、大人になると食べられるようになることがある。どこかで変化のときを迎えたのだろうが、それがなぜ変化したのかを自分では知ることができない。なぜか分からないが食べられるようになったとしか言えない。そういうことに出会うと、「自分」とはまだまだ未知なるものだと実感する。
一歳半の孫は、抱っこしていると、その目線の先には、窓の外に揺れる木の葉を見つめていることがある。まあそうやって大人の私が解釈しているだけで、孫の本心はそこにないのかもしれない。私には、孫が風に揺れる木の葉をジッと見つめているように見える。なんでそんなものに興味を示すのか。そのときの孫は、芸術家か、あるいは原始人の眼をしている。木の葉のざわめきを見つめる眼を、私が見つめていると、その眼の奥には原始未開の人々が見つめていた世界が感じ取れる。孫は、孫という身体装置を通して、たましいは原始の時代に遊んでいるようだ。ワガママ放題にしている孫とはまったく違った人格が、そこに現れていた。それは「威厳」とでも呼べるような、堂々とした「人類の尊厳」が漂っていた。人類は、姑息で下品で野蛮だが、そんな尊厳をももっているのだ。これは彼一人に見いだされたことだが、何か人類の普遍性に通じているものを感じた。
「自分」というものは、地球上に、あるいは宇宙の中でたった一つの存在に違いない。これが奇蹟なのに、奇蹟とは思えない。なぜなら人間には「相対化」という眼も持っているからだ。それは自分と同じような人間がいると見えてしまうことだ。これはこの世を生きるのにとても役に立つ知恵だが、それが「奇蹟」を曇らせる元凶でもある。Eテレで「no art, no life」という五分番組をやっている。障害者の生み出す芸術行為を、毎回見せてくれる。さまざまなひとが登場するのだが、どれも「個性」に満ちていて、いつも感動させられる。中でも自分の唾液で壁紙を剥がし、壁に作品を描く勝山直斗さん(14歳)が印象に残っている。彼は障害者施設で暮らしているのだが、それは人類が「相対化」という眼で分類しているだけで、彼の存在はそんな「相対化」を吹っ飛ばして「尊厳」を放っている。思えばベートーヴェンもゴッホも、「相対化」という濁った眼で見れば、「障害者」だったのではないか。しかし彼らはそんなことは眼中になく、「自分」の内部から吹き出してくるものに素直に従った。それを人類は「芸術」と命名するのだが、彼らはそんな命名も眼中にはないだろう。ただ、ただ「自分」の中から生まれてくる衝動に従っただけだろう。彼らの作品は、それを聞き、見るものに感動を与える。代替え不能という領域から生み出される未知の個性は、人類に感動を呼び起こす。この「相対化」という濁りを取っ払ってみれば、ひとは誰しも「奇蹟人」なのだ。ただただ、この「相対化」という眼を濁りとして、常に見えるようにしておかなければならない。
だからこの世を「生きている」のは、「自分」以外にないのだ。「同じような人間」はいても、「同じ人間」はいないのだ。