八方破れという言葉があるが、それはこれから八方破れの構えをすることではなく、もともと八方破れだったと覚めることではないか。八方破れの構えとは、まったく構えていないように見えるのだが、その実、どこから敵に責められても、即座に対応することのできる構えだ。さあこれから八方破れの構えをするぞと構えようとすると、身体が緊張して、そえはできない。八方ではなく、一方になってしまう。それが、もともと八方破れだったのだと覚めること、それが〈真・宗〉ではないか。
八方破れに成れる、あるいは成ろうとすると却って成れない。そこに人間の意志が回入してしまうから。もともと八方破れと覚めるということしか、八方破れは人間に成り立たない。これは何も剣術のことを語っているのではない。我々人間がこの世を生きるときの「構え」を問題にしているのだ。英語で言えば、オリエンテーションだ。
一般社会の通念は、人間は誕生して、そして死んでいくという「絶望の物語」でできあがっている。「それでよい」のかというのが宗教的要求の疼きだ。そこから生の方向性を求める。求める方向性を、「真実への希求」と言い換えてもよい。親鸞はそれを「信」という一言で簡略化した。最初、「信」をやがて得ることのできる体験として求め始める。時間的に言えば「いつか得られる」と思って求める。そのように求める「構え」は自前のものだ。その「構え」は、時間を過去から現在へ現在から未来へと考える発想だ。この発想を親鸞は、やがて「自力」として見いだすのだ。私たちが社会的通念としている時間観は、親鸞から見れば「自力」の時間観なのだ。この「構え」を取る限り、「信」を求めている間は、「信」が得られないというジレンマを生む。親鸞の言う「信」とは、この「構え」が解体されることなのだ。そうなると時間は、〈いま〉へと還流する。過去も未来も、〈いま〉へと還流してくる。〈いま〉を生み出している「十劫」が開かれる。
時間ばかりでなく、「主体」、つまり自分も逆流する。いままで「自分」を核として考えてきたものが溶解していく。確かに「自分」はあるのだが、それは「ある」という思いでしか証明できない「ある」である。仏教はそれを「我執」として見いだした。そして真実は、「無我」であると解明した。無我とは我という実体はないという意味だ。我々の肉体があるのも、様々な細胞などがいろいろな条件で結合し、物質となっているだけで、固定的なものではない。つねに変化をして流動している。だから究極的には無いものだ。つまり、この「無い」というものを背景として「ある」が仮に成り立っているのが、我々の肉体である。
そして「信」とは、この「無い」が自己の本来性だと教え、こっちを「真実の自己」として生きようとすることだ。この「真実の自己」が「我執」の背景にあって、現象として現れるときには煩悩を通してくる。なたみそねみはらだちなどの煩悩は「真実の自己」が現象としてあらわれるときの作用だ。
「煩悩具足の凡夫」とは否定的なニュアンスでも、肯定的なニュアンスでもない。これは「真実」から反照されたところから感じ取れる「尊い」というニュアンスの言葉だ。徹底的に、何をしても、何を感じても、自己保身と自己肯定にしか関心のない存在が「煩悩具足の凡夫」だが、これが「尊い」のだ。つねに自分の作為を超えている法性の現れだからだ。この「尊さ」が感じられると、私が見渡す限り世界も尊いものへと変化する。これはまさしく「法性のみやこ」ではないか。親鸞は、これから往くべき世界として、それを考えているようだ。(『唯信鈔文意』)しかし我々はもともと、「法性のみやこ」の中に生まれてきたのではないか。未来に往くべき「法性のみやこ」を突き破って、その未来から生み出されている「法性のみやこ」の中を生きてきたのではないか。「法性のみやこ」とは、「過去形」の存在しない世界だ。すべてが「未然形」になっている世界だ。だから「八方破れ」でいられるのだろう。すべてが「間に合わない」と知っているから、「八方破れ」でいられるのだ。