道元は、座禅という行為のところに「覚りの完成体」を見ている。つまり身体は覚っているのだが、こころが覚りに近づけないと考える。道元が「典座」という食事担当者の心得を重視するのは、そいういうことだろう。身体を養うことは、「生ける仏陀」を養うことになるからだろう。しかし、こころは覚っていない。だから覚りの完成体である身体から、こころは一生涯学び続けなければならないことになる。
一方、親鸞は南無阿弥陀仏という発語行為に身体性を見ている。つまり「称名」行為は「諸仏」の次元にあると考える。南無阿弥陀仏と発語する行為、そのものは「諸仏」の次元にあるのだ。道元も親鸞も、ともに身業に仏の完成体をみているところは同じだ。
身体性の「果位」は完成体、「因位」は未完成体と見る。
しかし、道元は因位から果位へと移行したがることはダメだと、徹底的に否定する。つまり覚りを得るための座禅は本当の座禅ではないという。それでは座ることが覚りを得るための手段になるからだ。それでも、ただ果位の身体に、因位の身体を重ね合わせることだけに徹する。何かのために座禅するのではなく、ただ座禅することだけを優先する。人間が座禅をするのではなく、座禅そのものが座禅をするという、論理的には表現できない状態にまで、人間の「意志」を徹底排除する。
繰り返しになるが、親鸞は、南無阿弥陀仏と口業で発語する身体性に果位を見る。それを「諸仏」と言っている。しかし、自分の立ち位置は、そこに置かない。徹底して因位に置く。つまり、「凡夫」の次元に置く。
道元が座禅という身体性に埋没していくところを、親鸞は身体性には傾斜しない。つまり、南無阿弥陀仏という発語行為のみを優先しない。称名ばかりでなく、あらゆる行為の結果(果位)は「諸仏」の次元だと受け取っている。自分はどこまでも「凡夫」であり、未完成に置く。
あらゆる行為の始発点を自己でなく、完成体に置く。そこからの受動として自己を見る。自己が完成体からの促しで営まれていると受け取る。親鸞の理解は、座禅をするのもしないのも、果位からの受動性で決まってくると見ている。だから、道元のように、座禅という行為を特化して、行為しなければならないという強制はない。「するか、しないか」は、「凡夫」が決めるものではないと言う。だから、道元のように「しなければならない」という緊張は消されている。
道元にとっては、しないことはダメなことであり、常に「座禅をする心掛け」がなければ仏教ではないと思っている。しかし、親鸞には、その緊張はない。「する」と「しない」の決定は「凡夫」にまかされていないからだ。「さるべき業縁」(『歎異抄』第13条)だけがあるからだ。それは行為の始発点を完成体(阿弥陀さん)からの促しと受け取る態度だ。
それは極めて内面的なことであり、三業で言えば、心業の次元にある。だから、仏教か、仏教でないかの分岐点は、外に現れた行為からは推測できない。道元は身業だから分かるが、親鸞は心業だから、それは分からない。
親鸞にとっては、最初の一歩が〈真実〉に適っているかどうかが、仏教か否かを決める分岐点である。親鸞が「菩提心」を問題にするのは、その関心からだ。道元には、その関心はない。とにかく、座禅という行為の恒常的継続のみに関心がある。親鸞は、自己の内部に仏道を求める菩提心のないことを自覚した。正像末和讃で「三恒河沙の諸仏の 出世のみもとにありしとき 大菩提心おこせども 自力かなわで流転せり」と言っている。自分の心掛けとして起こすような「菩提心」は「自力」であり、それは〈真実〉には適っていないと見る。
実はそれは「横の大菩提心」(『教行信証』信巻)の発見という大事件によってもたらされた理解だ。親鸞の「菩提心」の理解は、「度衆生心すなわち衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心すなわち大菩提心なり。」(『教行信証』信巻)である。つまり、衆生を安楽浄土に生まれさせるこころであり、これは阿弥陀さんのはたらきだから「大菩提心」なのだと受け取っている。人間がいくら刻苦勉励してひたすら修行しようとも、それは「横の大菩提心」ではなく「自力の大菩提心」(和讃)だと言っている。
これは別の言い方をすれば、完成体に触れることで、初めて未完成体が発見されたということだ。仏に触れなければ、凡夫は見つからない。仏という完成体に触れて、初めて凡夫が発見されるのだから、仏と凡夫は同時に発見されることになるのだ。そこで初めて、未完成から完成へと向かう必然性が剥奪される。「成仏」とか「往生」という完成態を目指そうとする動機は完全に消される。違う言い方をすれば、あらゆる動詞的関心が消される。そして「存在の零度」に帰される。
これは信仰とか宗教以前にある、「自己自身」をいかなるものとして理解しているかという問題そのものである。自分を「人間」と理解しているか、「凡夫」と理解しているか。自分は何ものとして存在し、どこへ向かって生きているのかという、ごくありふれた、しかし誰も問うことのない問題領域をあぶり出してくる。もし自分自身を「凡夫」だと理解したとすれば、そこに完成体である仏が見えていなければならない。仏なしに「凡夫」と言えば、それは「凡夫」という人間の固定観念に過ぎないことになる。仏と「凡夫」は同時に発見される出来事なのだ。
まあ「存在の零度」に帰されるといっても、生きるということは、あらゆる行為の連続だから、つねに何かをしている。それが、いままでの時間の流れではなくなり、「向こうから」の流れになるだけなのだ。
道元の時間は、「こちらから向こうへ」だが、親鸞の時間は、「向こうからこちらへ」になる。そこに「時間の逆流」が起こる。過去から現在へ、現在から未来へと平行移動する時間ではなく、過去から、そして未来から、〈いま〉という一点に、垂直に逆流して充満してくる時間へと変化する。その一点が決まれば、自己が法の無限に展開する「場所」となる。
道元が親鸞を見れば、「何もやってないじゃないか」と見えるだろう。しかし、「する」ことのみに価値を置こうとする眼には、親鸞のダイナミズムは見えないに違いない。道元は座禅をしているときのみに価値を置くが、親鸞はあらゆる瞬間に価値を見る。それは阿弥陀さんの「大菩提心」が、自己の上に展開していることだからだ。何をしているときも、すべて南無阿弥陀仏だから、見方によれば、何もしていないようにみえるのだ。ここまでが宗教的な時間で、ここからが宗教的な時間ではないと切り分けることができなくなったのだ。
いま思いついたのだが、親鸞の直感した仏法こそ、本当の「止観」かもしれない。「零度の存在」は、初めて動いていたものを止めた静止点だ。その静止点が決まることによって、世界が動き出す。止まらないと動きは見えない。静止する一点が決まることによって、これほどまでに世界は動き出すものなのだ。「自己」とは、この一点のことらしい。動きは阿弥陀さんのおのずからのはたらきだった。ああ「自己」は、過去、つまり阿弥陀さんの動いた後ろ姿しか見えないのだ。未来は誰も見ることはできないのだ。
「いつでも、どこでも、誰でも」に関わろうとする「大菩提心」が、「いま・ここ・わたし」という「存在の零度」に収斂してくる。「自己」は、「弥陀成仏のこのかた」から一歩も動いてはいなかったのだ。