「方便」という言葉は、どうもマイナスイメージと共にあるようだ。
それは「ウソも方便」という言いぐさがあるからだろう。つまり、「真実」が本当で、「方便」は仮のものというイメージで使われるからだ。
まあ「ウソも方便」というときには、善意の文脈で使われるのだろう。出火した家の中で子どもたちが夢中で遊んでいるので、「火事だよ!」と言っても出てこない。本当のことを語っても、子どもたちには意味がわからない。
そこで、「君たちが、喉から手が出るほどほしいオモチャが、外にあるよ!」と言えば出てくるだろう。それで難を逃れることができる。こういうのが『法華経』で言うところの「方便」と言うわけだ。
まあそれは「権仮方便」という意味になる。「真実がこちらにあり、その真実を伝えるために方便がある」という考え方だ。だから、それが方便だと分かったとき、方便は捨てられて真実を選び取ることができる。
しかし方便にはもうひとつある。それは「善巧方便」だ。
「善巧方便」とは、我々が見たり、感じたり、理解したものはすべて方便という意味だ。つまりは、方便以外には真実に触れることができないという方便の次元だ。それが言葉で表現されようが、概念で表現されようが、人間が感じ理解できる次元は、ことごとく方便である。だから、方便だと分かっても、それを捨てることができない。方便を捨ててしまえば真実には出遇えないからだ。
もっと厳密に言えば、方便が「文字」だとすれば、真実は「概念」ということになる。「文字」は「意味するもの」で、「概念」は「意味されるもの」だ。「愛」という「文字」を見たとき、文字を知っている人間であれば、おのずと「愛というものがもっている概念」が頭の中に浮かび上がる。以前、エロスという言葉を使ったら、すぐに「いやらしい」と反応したひとがいた。エロスという文字自体には「いやらしい」という意味はないが、そのひとの固定観念が「いやらしい」と感じさせたのだ。
人間は、「文字」と「概念」がきちんと一対一対応で決まっているように錯覚している。だから、自分の固定観念を疑うことがない。
どんな概念であっても、人間は〈真実〉を表現することができない。だからもともとは〈真実〉という言葉でも当てはまらない。当てはまらないのだが、仮にそれを使っておくしかない。そうしないと人間界では、何かを伝えることができないからだ。
だから、阿弥陀さんが、阿弥陀さんという文字になったのが最大の「善巧方便」だ。この文字によって、文字を超えた意味を暗示してくる。それをメタファーmetaphorという。
それは阿弥陀さんが文字を超えた意味を暗示しているばかりでなく、その言葉を通して、他ならぬ自分自身が文字を超えた存在であることを教えてくる。
自分自身は、〈ほんとう〉は阿弥陀さんだったのだ。決して、文字や概念で捉えることのできないものなのだ。阿弥陀(a-mita)が「無量」という意味だとすると、私自身が「無量」なのだ。決して、量ることができない。そもそも量るには「ものさし」が必要だが、あらゆる「ものさし」を失った状態が、南無阿弥陀仏だからである。
「自分が阿弥陀さんだ」という表現を見たときに、それをどう受け取るか。そこで各人は、自分の固定観念との戦いに入る。究極的には、自分自身の固定観念と自分自身が戦う以外にないのだ。