以前、「孤独死のすすめ」とか「ひとり死のすすめ」とか「自然死のすすめ」とか、そういう名前の本が出ていた。世間では「孤独死」はしたくないという思いから、「孤独死」を忌み嫌うけれども、人間という生き物は、元来「孤独死」以外の死に方はできないのだと教えていた。だから、「孤独死」という言葉を見ないようにして遠ざけるのではなく、その実体をよく見つめてみよう、そこから「孤独死」で大丈夫ですよと言えるような受け止めを開こうと勧めているのだろう。
ひとが、どれだけ大勢の家族に恵まれようとも、死ぬときには「孤独」以外にないのだと開き直ってみれば、確かに、そのとおりと思われる。
仏教も、「独生・独死・独去・独来(略)無有代者」(『仏説無量寿経』)と言って、「独」を教える。「独り生じ独り死し独り去り独り来たりて、(略)身、自らこれを受くるに、有(たれ)も代わる者なし」と。これは「独」を否定的、あるいは悲観的に教えるのではなく、「ありのまま」の、つまり本来性としての人間の有り様を教えるものだ。
それでもこの経言を読んで悲観的に受け取らないひとはいないのではないか。それは本当のことかも知れないけれども、余りに寂しいではないかと。しかし、この経言は、ひとは独りで生き、独りで死んでいく寂しい生き物だから、せめてこの世では仲良く助け合って生きましょうと言っているわけではない。そうなることが望ましいかも知れないが、最初からそこを目指して表現の的を絞っているわけではない。ただ、この経言を読んだときに、なぜ自分のこころに「寂しい」という感情が起こるのか、まずそのことの意味を考えよと迫ってくる。経言は、あくまで自己を照らす鏡であって、二次的なものだ。どこまで行っても、自己が問題の中心なのだ。問題は経言にあるのではなく、こちらにある。こちらにある問題を照らし出し、あぶり出してくれるのが経言のはたらきだ。まああぶり出されても、自己が「あぶり出された」と受け取れなければ、経言は経言として成立しないということでもある。つまり自己にとっては、「単なる記号」の意味しかなくなる。
私にあぶり出されてきたことを一言で言えば、「孤独と孤独感を分けて考えよ」だ。「孤独」は法性の〈真実〉を表現しているのだが、それを「寂しい」と「孤独感」で受け止めるのは位相の違う問題だ。私の言い方で言えば、「孤独」は〈一人一世界〉の事実だから「孤独感」を超えているが、「孤独感」はそれを「寂しい」と受け取る「一世界全人類包摂世界観」が感じさせていることだ。〈一人一世界〉は、自己と環境(生活世界)が一体の世界観だから「絶対」だ。つまり「孤独」以外に、生物の存在の仕方はない。仏教語で〈一人一世界〉を「身土不二」とか「身土一如」とか表現してきた。「身」(自己)と「土」(環境)が「不二(二つでは無い)」と。あるいは「一如(一つの如し)と。しかし、「一世界全人類包摂世界観」は自己と世界が別々に存在すると思っているから、「相対」してしまう。この世界観は「常識」になっているから分かりやすい。自己は一つの大きな世界という袋で包まれた中に暮らしているという世界観だ。世界が一つだと見えてしまうと、その中で暮らしている人間の価値が相対的なものになる。世界は人間を包むもの、人間は世界によって包まれるものと観念される。現代では、地球上に住む人間が76億人とも言われている。つまり「一世界全人類包摂世界観」に洗脳されていると、自分の価値が76億分の1になるのだ。これが「孤独感」を生み出してくる背景にはある。
その洗脳から覚めて見れば、〈一人一世界〉が〈真実〉の、還るべき世界観となる。これは独我論ではない。自分の価値が絶対であるということは、他者の存在も絶対であるという見方だ。むしろ自分の生活世界そのものを成り立たせているものを「他者」と言うのであって、「他者」が自分と相対関係にあるわけではない。この「他者」は人間だけを意味してはいない。自分を自分として成り立たせ、支えている環境世界全体が「他者」である。この身体すら、「他者」と言えるのだ。だから、「他者」とは言ってみたものの、「他者」はどこもいない。人間は、皮膚で覆われた内部を「自己」と命名しているだけで、事実は内部も外部も融通しているものである。事実はあらゆる因縁が網の目のように微細に関係しているだけのことである。これは自分だ、自分の身体だ、自分の所有物だという観念があるだけで、そんな実体はどこにもない。自分を確固としたものとして固めたいという思いを「我執」というが、これは幻想であると〈一人一世界〉は教える。こっちが〈ほんとう〉であって、「一世界全人類包摂世界観」は幻想だと知っていることを、仏教は「覚る」と言い表してきただけだ。そうなると「孤独は事実、孤独感は幻想」ということになる。この二つが見事に切り分けられなければならない。