「南無せよ」が「南無せよ」のまま打ち込まれる

安田理深先生も、親鸞が言わんとしたことを、何とか表現しようとされ、次のように言われる。
「名号は本願の言葉ですが、南無せよという本願の言葉に、南無するという事実を賜るわけです。南無せよという言葉を聞いて、ああそうかと言ってたのむというのではないのであって、人間はたのむことのできないものです。だから南無せよという御言に南無するという事実を賜るのです。南無せよという御言に頷くのです。頷かせるために南無という名前が出ているのです。」(『親鸞における救済と自証』第三巻p65)
ここで安田先生が表現にご苦労されているように、私も、この法性の〈真実〉を、何とか表現したいと願いながら、あれこれと表現してきた。この安田先生の言葉は、まさにそのとおりであり、何も問題はないのだが、「南無せよという本願の言葉に、南無するという事実を賜る」という、この表現には違和感を覚える。「南無せよ」という言葉が、「南無する」という言葉に変わってしまっていることに違和感を覚える。
これを私は、こう言い換えてみた。「南無せよという本願の言葉に、南無せよという事実を賜る」と。こう言った方が、まだ法性の〈真実〉に近いように思う。「南無せよ」が、人間の上に「南無する」と成り立ってしまうような表現は、「啓蒙的表現」である。「啓蒙的」というのは、人間の常識が納得するような平板的表現という意味だ。
だから私は以前、東京新聞(2013/8/17)に「信ずる必要のない宗教」という題で書かせてもらった。親鸞の直感した仏教は、「信ぜよ」であって、それが人間の上に「信ずる」として成り立つものではない。「信ぜよ」が「信ぜよ」そのままで成り立たなければならない。「信ぜよ」が「信ずる」になったら、それは〈真実〉ではない。〈真実〉は人間に向かって、「信ずる必要はない」と迫ってきて、人間から「信じなければならない」という抑圧の煩悩を取り除いてくれるのだ。
安田先生も、このことは十分にご存じなのだ。だから「ああそうかと言ってたのむというのではないのであって、人間はたのむことのできないものです。」と、ちゃんと〈真実〉を表現されている。これを私がちょっと違った表現で補ってみると、こうなる。「ああそうかと言って信じようとするのではないのであって、人間は信ずることのできないものです。」こう補えば、法性の〈真実〉に近い表現になるように思う。
ここでいう「信ぜよ」は、前の文章で言う、「南無せよ」と同義語だ。厳密に言うと、親鸞は「南無せよ」という如来の「勅命」を、「南無せよ」のままで人間に成り立たせようとした。「厳密に」という意味は、より法性の〈真実〉に近い表現にするとという意味だ。「南無せよ」が「南無する」になることではない。しかし、それをどういうふうに表現したらよいのかということに、親鸞は一生を捧げたと言ってもよい。「南無せよ」が「南無せよ」のままで人間の上に成り立つなどという表現は、文法的におかしいし、また誰も表現したことのない領域だから、まさに前人未踏の領域だった。
そこをなんとか表現してみたい。表層段階では、「南無せよ」を阿弥陀さんからの絶対命令として受け取る。人間は絶対に南無できないものだから、そこに向かって絶対に南無せよと迫ってくる。これは常識でも理解できる。しかし次の深層段階になると理解が難しい。それはこうだ。「南無せよ」という命令が人間に成り立つことで、初めて「南無せよ」に満たされるからだ。
安田先生も指摘されているように、「ああそうかと言ってたのむというのではないのであって、人間はたのむことのできないものです。」だ。「南無せよ」という命令を聞いて、自分が「南無しよう」と思って励むことではない。命令を聞いて、人間が「南無」しようとしたら、その時点で、「南無せよ」という命令が不要になってしまう。だから「南無せよ」という命令が聞かれる場所は、決して「南無」のできない場所でなければならない。「南無せよ」という命令を聞いて「南無」しようと少しでも思ったら、阿弥陀さんとは絶縁なのだ。
「南無せよ」という命令が聞こえたということは、自分から「する」という動詞的関心が奪い取られるということではないか。それが「南無せよ」が「南無せよ」のままで人間に成り立つことなのだ。もっと違った表現で言えば、表層段階では、阿弥陀さんの「南無せよ」が、向こうから人間に下される命令だと聞こえている。それが深層段階になると、外部の、向こうから命令されていた「南無せよ」が、外部のままで、自己の深層の核になる。内部よりももっと近いものとして「外部」が深層の核となる。そうなると表層段階で聞こえていた「南無せよ」は、あくまで自分の外からの命令としてだけあって、それが深層の「南無せよ」にはなっていなかったことになる。外部からの命令としてのみ聞こえてしまうと、自分が圧倒され、南無できない自分は劣等感で苛まれる。絶対者の絶対性が強ければ強いほど、劣等感もさらに強くなる。それがルサンチマンにもなる。あるいは違う反応も生まれる。劣等感をベースにしているから、「南無」できないのならば、「南無」できないままでよいのだと、開き直って自己慰撫することにもなる。
ところがそれが深層まで深まり、自己内部の核となると、劣等感も解体されてしまい、「南無せよ」だけが聞こえる段階になる。外部からの「南無せよ」は絶対否定として聞こえるが、それが自分よりも近い、深層の核になると、絶対受容へと一気に逆転する。「南無せよ」は、永遠に「南無」できないもののみに聞こえる阿弥陀さんの命令だから。この絶対命令は「南無」しなければならないという強制と、「南無」できないままでよいという自己慰撫の、二つの煩悩を解体する。そして、「南無せよ」が「南無せよ」のままに自己と世界全体に響き渡る。

以上は、まだまだ発展途上の表現だが、そこをさらに掘り進んでいきたい。