ニーチェは親鸞的だ。「生の意味」を人間がねつ造しようとすることを徹底的に否定する。「イエス」ではなく、後代の「キリスト教」が「生の意味」として打ち立てた「目標」を解体した。親鸞も、既存の浄土教が打ち立てた「理想の浄土」を、人間がねつ造したものとして解体した。それをニヒリズムと呼べば、ニヒリズムの徹底だ。
親鸞もニーチェも、「たかが生きる意味」と、人間を一度は否定する。しかし、そこから身を翻す。「されど生きる意味」と。この翻し方という点で両者は袂を分かつ。
ニーチェは「人間」を徹底的に否定しながらも、最後は人間に夢を見ている。だから、人間の力で、どうにかして「生きる意味」を生々しい生から汲み取らなければならないと言う。さんざん「キリスト教」に騙されてきたから、あらゆる「超越的なもの」という観念に近づくことを嫌っている。しかし、「超越的なもの」という観念も人間の観念だから、それほど怖れることはない。親鸞はそれを「無義をもって義とす」という表現で暗示している。その点でニヒリズムをニーチェ以上に徹底する。
それをもっと丁寧に、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(歎異抄・後序)と表現する。親鸞は「神」も「仏」も「超越的観念」も「健康」も「金」も、そして「生」も「死」も、「生きる意味」も、その他、人間が考えるあらゆる観念を「そらごと、たわごと」と否定する。その否定力を「ただ念仏」と呼んでいる。注意すべきなのは、「そらごとたわごと」と「念仏」が同じ意味のレベルで扱われていないということだ。「そらごとたわごと」を捨てて、「念仏」に希望を託そうとすれば、それこそ「超越的観念」の虜になってしまう。この「念仏」という言葉の内容は「空洞」なのだ。つまり、人間のあらゆる観念を「そらごとたわごと」とあぶり出し否定する動詞なのだ。だから「そらごとたわごと」という観念も人間のねつ造だと、当然否定される。
その力は人間の内部からはやってこない。人間がやろうとすれば、自分で自分の身体を持ち上げようとするようなことになり、不可能だ。ここがニーチェと親鸞の分かれ目だ。ニーチェも「力」を直感してはいるのだが、それを人間内部に還元しようとしている。「超人」思想や「ツァラトゥストラ」も、その系譜だ。親鸞は、それを人間内部のことに還元しなかった。それだけのことだ。人間内部のことではないよということを示すために、メタファーとして「本願力」と言った。それは「本願力」があるという意味ではない。人間内部のことではないということを示すためのメタファーなのだ。しかしそうやって言葉化してしまうと、言葉そのものが一人歩きを始めてしまい。人間がする観念操作の道具とされてしまう。それをニーチェは否定したかったのだろう。
親鸞にとって、「超越」は人間が目標とするものではなく、人間を徹底的に否定する力そのものなのだ。それを人間の外部と表現した。この「内部」と「外部」という言い方も、注意が必要だ。この観念も人間のねつ造だからだ。「外部」と言ってしまうと、俄然、「超越的観念」に引っ張られてしまう。ほんとうは「内部」も「外部」もないのだ。
極論へと突き詰めれば、あらゆる人間の「する」という関心を否定して、「ある」を回復させる。さらにその「ある」が「されている」という力によって支えられていることをあぶり出す。これが親鸞の直感した「〈真・宗〉」なるものなのだ。
ニーチェの直感力は優れていて、「ラクダ→ライオン→子ども」という譬喩で人間の本質を捉えた。言えば「ラクダ(奴隷状態)・ライオン(権力上昇志向)・子ども(遊び充足)」だ。子どもとは人間の究極的な本質を象徴している。これは「遊び」のメタファーだ。つまり「したいこと」と「できること」が一致した状態だ。マルクスも、この世界を実現したかったのだろう。もちろん親鸞の文脈でも、「遊戯」は重たい意味を示している。それで、親鸞の言いたかったことを、一言で代弁すれば、「いのちがけで遊ぶ」ということに尽きるのだろう。