『救済詩抄』第二巻

『救済詩抄』第二巻を280冊も大量にご購入いただいた。
それはお寺で、門徒のみなさんにお送りするのだそうだ。これは大変なことだと思った。まずそのお寺の住職さんが、「この本をプレゼントしよう!」と決められたことが素晴しい。なぜこの本を素晴しいと感じたのか。その住職さんに「〈真実〉を見る目がある」ということだ。
 もともと人間は〈真実〉なんていうことを知らないから、「これが〈真実〉だ」と指摘することはできない。ただ何となく〈真実〉らしいのではないかという雰囲気があるだけだ。
 このなんとなくがいいところだ。これは〈真実〉の匂いを嗅ぎ分ける嗅覚のようなものかもしれない。
 生前の訓覇信雄先生に会いに行ったとき、「お前は何しに来た?」と問われたので、「先生の匂いを嗅ぎにきました」と答えたら、すかさず「匂いを嗅ぐには、鼻がちゃんとしとらんと嗅げんのやぞ」と、胸を借りて稽古をつけてもらった。
 それはそのとおりなのだが、会いに来てくれることを先生は喜んでいたように見えた。
 それはそれとして、〈真実〉を嗅ぎ分ける嗅覚が大切だと思う。
 お釈迦さんを嗅ぎ分けた阿難。法然を嗅ぎ分けた親鸞。親鸞を嗅ぎ分けた唯円。みんなしっかりした鼻を持っていた。
 これは誰にも教えることができないし、教わることもできない。
 それこそオウム真理教のグルを〈真実〉と嗅ぎ分けた弟子もいた。どこでその「グル幻想」を超えられるかが、最後に残る問題だった。『臨済録』には「殺仏・殺祖」とある。「仏にあっては仏を殺し、祖師にあっては祖師を殺す」と。それは師からの独立を暗示する。
 初めは祖師の権威に敬服し近づいて、感服し服従する。そうしなければ仏道を学ぶことは叶わない。しかし最後には、「師は師、私は私」という〈一人一世界〉へと抜け出て独立する。
 自分の前には、法性そのもの--〈真宗〉では「阿弥陀さん」という--しかない。横には、師や先輩方がいる。師も法性を「師」なりに受け取った世界を表現していただけだ。自分も自分なりに法性の世界を表現すればよい。
〈真宗〉は禅宗などと違い、唯一、「印可」を必要としない教えだ。つまり「師」から「それでよし、間違いない」と承認を受ける必要がない。それでは教えの権威が崩れるではないかと批判されそうだが、教えの権威などはもともとない。また承認を受けずとも、お互いに絶対満足する世界だ。弟子が自分勝手なことを言い出したら、教団がバラバラになってしまうではないかと批判されるが、そんなことは知ったことではない。もともと教団など、共同幻想に過ぎないのだ。
 この世に生きているのは「私一人」しかいないのだから、この「私一人」においていただいた法性を自分なりに表現する以外に生きる道はない。
 後は、その表現を見て、「ああそうか」と思う人間が生まれるか、「そんなデタラメは信用できない」と思う人間が表れるかの違いだけだ。そんな、ひとの評価に色目を使わなくてもよい世界をいただくことが、〈ほんとう〉なのではないかと思う。