ブラックホール

南無阿弥陀仏は念仏だが、念仏は南無阿弥陀仏ではない。南無阿弥陀仏は名号とも呼ばれ、言葉だから自分の向こうにあるものだが、念仏というと「仏を念ずる」という動態表現になり、自分の行為とも解される。言葉は自分と対峙するから純粋だ。言葉も人間が作ったものだから不純ではあるのだが、それも不純だと知らされるのは、向こうに対峙する言葉のはたらきだ。
もちろん南無阿弥陀仏と念仏が同じ意味として使われる文脈もあるから、そう目くじらを立てることもないのだが、どうも最近は、南無阿弥陀仏と念仏を分けたい気持ちにかられる。事物としての仏像は阿弥陀如来立像であり、これならば間違いなく自分に対峙できるから安全だが、この仏像も南無阿弥陀仏という言葉から生み出されたメタファーであろう。ただ仏像の阿弥陀如来立像が安置されていても、それが「阿弥陀如来」と指示されなければ、一目見て「これは阿弥陀如来だ」とは分からないだろう。だからやはり言葉としての南無阿弥陀仏が仏像よりも先にあるものだ。
南無阿弥陀仏という言葉は、決して人間の了解内容にはならない。人間の理解を拒絶するものだ。人間の理解を拒絶するものだから純粋なのだ。人間が希望を懐くときも、また失望するときも、かならず何かを理解した、その理解というテーブルの上で感じ取られているのだ。浄土教は、何でも突き詰めた形で表現する。希望を「極楽」として、また絶望を「地獄」として。この「極楽」と「地獄」が共に載っているテーブルは、功利主義という知でできている。功利主義というテーブルがなければ、それらもなくなる。
南無阿弥陀仏は、それが単なるテーブルだと教える。だから南無阿弥陀仏は血も涙もないが、血も涙もないという知をも捨てさせる。だからと言って、血も涙もあるというわけでもない。このように、人間が南無阿弥陀仏から何事かをかすめ取ろうとする触手をスパッと切り落とす。これほど純粋なものはないだろう。人間にとって、南無阿弥陀仏は永遠に不可解そのものだ。だからどれほど南無阿弥陀仏について理屈をつけようとも、それは南無阿弥陀仏には一切関係がない。人間が恣意的な知で南無阿弥陀仏について固定観念を塗りつけただけのことだから。人間が勝手に懐いた南無阿弥陀仏という観念に過ぎない。親鸞は「無義をもって義とす」と、それを言い当てている。人間の懐いた義(理屈)は人間が勝手に懐いただけのことであって、そんなものと南無阿弥陀仏は無関係だというわけだ。
なんだか南無阿弥陀仏はブラックホールのようだ。あらゆるものを飲み尽くしてしまうブラックホールだ。

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