ない、ゆえにある

 一昨日のお朝事の和讃は、「如来すなわち涅槃なり 涅槃を仏性となづけたり」、「信心よろこぶそのひとを 如来とひとしとときたもう 大信心は仏性なり 仏性すなわち如来なり」だった。このように親鸞聖人が和讃を作るには、元になる経典があるのだが、それにしても親鸞聖人は自由に表現を遊んでおられるように感じる。如来が涅槃で、それが仏性で、それが信心であると自由に歌っている。こうなってくると何でもありと思えてしまう。
 まあ何でもありというのが〈真・宗〉だから仕方がない。何でもありというのは、親鸞聖人の視座に映った世界すべてが〈真・宗〉だから、親鸞聖人がご覧になった世界は、すべてが〈真・宗〉のメタファーになっているという意味だ。飛んでいる鳥を見ても、降っている雨をみても、窓の外の景色を見ても、すべてが〈真・宗〉のメタファーなのだ。
「信心よろこぶそのひとを 如来とひとし」というのは、『大経』のこころを述べたものだろう。最初、「信心」を喜んでいるひとが「如来」と等しいとは言い過ぎではないかと思った。「信心」を喜んでいようとも、それは凡夫なのだから、凡夫が「如来」と等しいとは言えないのではないかと思った。そう思った次の瞬間、「お前の考えている如来とは何か?」と問われた。そう問われると、はたと困ってしまった。別に「如来」という人物像をイメージしているわけでもないからだ。実に曖昧なイメージなのだが、何となく凡夫よりは偉い人というイメージだ。この曖昧なイメージを曖昧だと暴き出してくれるのが、また〈真・宗〉のはたらきだ。「如来」とは「従如来生」(「如より来生する)ということで、事物を意味してはいない。真如から来たり生まれることである。それでも「如来」という単語になると人物像を持ってくるから不思議だ。勝手に人物像のイメージを作り上げて、そのイメージを自分自身の存在と比較しているだけだ。自分自身よりも尊く素晴らしい存在として思い描いているだけなのだ。そう感じさせているのは、私自身の中の劣等感なのだ。謙遜や尊敬という感情も、どうも自分の劣等感から生まれるだけのものらしい。
 親鸞が「信心よろこぶそのひとを 如来とひとし」と言ったのは、「信心」が「如来」とひとしいという意味ではないか。「如来」の「如」は、「真如」とか「如実」の如だろうから、〈真実〉のことだ。その〈真実〉と同じ信心だから「ひとし」となるのだろう。「ひと」が等しいという意味ではないだろう。信心が等しいのだろう。〈真実〉が如来に留まっているうちは、「如来」と呼ばれるが、それが人間に乗り移ってきたときには「信心」と呼ばれる。丁寧に言えば「真実信心」だ。
 これは自分のこころが真実と同質という意味ではない。自分の所有する「信心」が真実と同質だとなったら、それは親鸞の言う「自性唯信」(『教行信証』信巻)と批判される。
 ここが親鸞の主張するもっとも大切な点で、自分とは異質なものが「真実」である。異質なものがどうして「ひとし」という言葉で表現されるかと言えば、それは「函蓋相称」という意味で等しいのだ。これは曇鸞大師の譬喩だが、「函」と「蓋」が相いかなうという意味だ。「函」と「蓋」が同じ形だったら、二つが一つに重なることはない。「函」と「蓋」が重なる場合、二つは決して同じ形ではない。似ているが微妙に違う。似ているといっても違うのだから、一ミリ違おうが、百メートル違おうが、違うことには変わりはない。微妙な異質と言っても、これは決定的な違いだ。違った形のものが相かなうとは、接地面が生まれることであり、接地面がなければかなうとは言えない。この異質なもの同士が相かなうということを親鸞は、「二種深信」と表現してみたり、「たまわりたる信心」と言ってみたり、「行信」と言ってみたりしているのだ。
 親鸞が表現を尽くそうとしたのは、この信の接地面の微妙さだ。
「自分には〈真実〉はない。ゆえに〈真実〉はある」という証明の仕方だ。常識だと「自分に〈真実〉がある。ゆえに〈真実〉がある」という証明だろう。その逆なのだ。この「真実」と「自分」を切り分ける、うっとり見とれるしかない、見事な切れ味。この「ない、ゆえにある」という非常識な証明の仕方は、「常(識)人の耳に入らず」と言うしかないのだろう。