我々は、何を「現実」と感じているのか。「現実」の他に宗教や神話があるように思っているが、しかし、いままで「現実」だと思っていたものが、足下から崩れていき、「現実」が溶解していくと、そこに顔を覗かせてくるものが宗教や神話ではないか。我々が「現実」だと思っているものは、本当は強固なものでなく、いつ崩れてもおかしくない脆弱な幻想なのかもしれない。この世に生まれることも、自分の意志で決めたことではないし、やがてこのいのちが終わっていくことも知りつつ、いまを流されながら過ごしている。この丸裸のいのちを見つめると、「現実」というものが逆にあやふやなことに変質してくる。
自分の身の回りを見渡してみると、様々な事物が「在る」。これらは手で触れば堅さも、重さもあるから「客観的」で動かないように見える。しかし、2011年3月11日の地震のときは違っていた。身の回りの事物が、遊園地の「ビックリハウス」のようにグルグルと揺れ動いていた。これは自分の感じだから、事物がどれほど揺れ動いていたかは分からない。しかし、身の回りの事物がうねるように感じた。大地は「静止」しているものとばかり思っていたが、それは間違いだった。そうなると、仏教が主張する「諸行無常」とか「諸法無我」が〈真実〉ではないかと、仏教が説得力を持ってくる。この〈真実〉ということによってのみ人間は教育されていくのではなかろうか。どっちが〈ほんとう〉なのかという直感によって。親鸞は、この〈真実〉を嗅ぎ分ける嗅覚が鋭かった。だから既存の仏教を、この鼻で嗅ぎ分けた。師の法然をも、この鼻で嗅ぎ分けた。そして何の前提もなしに人間は「現実」を「現実」と見てはいないと自覚した。その目が「煩悩」という眼であることに気がついた。だから外界を見るという機能は眼が受け持っているのだが、それを統合している自我を発見した。これは唯識学から学んだことだろう。フッサールの現象学も、そういう直感から出発したものだろう。人間の眼を疑ったのだ。人間の眼は、網膜に世界を映すが、その網膜から受け取った映像を統合するものがあるだろうと。それが「現実」を、自分にとっての「現実」に脚色しているのだと理解した。それを自我と名付けたが、それも表層の自我と深層の自我があると追い詰めた。だから「現実」は自我が勝手に脚色しているものだから、幻想だと軽くみることはできない。ただ人間には、人間的にしか世界を受け取ることができないということが言えるだけだ。それを人間の「恣意的現実」と呼んでいる。「恣意的」というからと言って否定的な意味ではない。あるがままの事実を言い当てているだけだ。親鸞なら、それを「方便仮土」と名付けるだろう。人間は〈真実〉の世界を生きることはできない。「恣意的現実」しか生きることはできない。でもそれを「恣意的」だと教えられることで〈真実〉を直感する。まさに「二重国籍」を生きるということだ。
それは信仰のゲシュタルト崩壊を引き起こす。いままで当たり前に「現実」だと思っていた、時間・空間の感じ方が崩壊していく。そして未だ経験したことのない、「いま・ここ・わたし」を拓く。これを私は「存在の零度」と呼んでいるのだが、これが還るべき場所なのだ。「いま」とは宇宙開闢のいま。「ここ」とは全過去と全未来が拓かれるここ。「わたし」とは一切衆生を代表するわたし、である。私はヌルヌルしたものが好きだ。納豆や山芋やアカモクやメカブ等だ。これはどうも自分がアメーバだったからではないかと思われる。アメーバだったから、ヌルヌルしたものに惹かれるのではないか。私は「一切衆生」の中から生み出されてきたものだから、「一切衆生」の片鱗で出来上がっている。そう思うと、自分とは、果てしない生命のうねりのなかにあるのではないか。私の中をよぎる一瞬の考えや、感情も、大いなる生命のうねりから生まれたものなのだろう。自分の思いを超えて起こる自分の思いには、そういう仕掛けがあったのだ。