拙寺のトイレの前には貼り紙がしてある。そこには「排尿も 我が思いでなし 南無阿弥陀仏」と書かれている。自分で書いたものだが、便器の前に立つ度に、いつも「そのとおり」と頷かされる。これを「排尿も 我が思いでなし 他力なり」とか、「阿弥陀さんのお陰なり」とか書いたのでは違和感が残る。やはり「南無阿弥陀仏」と言わなければ収まりが悪い。この違和感はどこからくるのだろうか。それは「南無阿弥陀仏」以外だと、人間の理屈が混じるからではないか。つまり説明になってしまうからだろう。「南無阿弥陀仏」は人間の説明を残るところなく粉砕してくれるので収まりがよいのだ。「南無阿弥陀仏」はいくら人間が解説しようとも、決して解明されない部分が残る。人間の解釈を寄せ付けない頑強なものだ。そのためか親鸞も『教行信証』(行巻)では、「南無」は解釈するが「阿弥陀仏」は解釈していない。「南無阿弥陀仏」の六字を解釈するのかと見せかけて、「南無」しか解釈しない。まあ「南無」が阿弥陀さんのはたらきだから、「南無」以外に阿弥陀仏はどこにもないということを暗示したのだろう。「南無」は「おまかせ」だが、その「おまかせ」は人間の「おまかせ」ではなく、阿弥陀さんの「おまかせせよ」というはたらき以外にはない。人間は阿弥陀さんの「おまかせせよ」という命令を受けただけで悦服させられる。「おまかせせよ」という命令を聞いて、「それではおかせします」と人間が持ち替える必要がない。持ち替えてしまったら間違いだ。だから「南無阿弥陀仏」には「おまかせ」する対象はないのだ。「対象なき信仰」だ。
しかし、そうやって解釈しても、〈ほんとう〉の「南無阿弥陀仏」は決して解釈されない。人間の解釈を跳ね返してしまう。人間の理屈をでは決して解明されない言葉だから、人間を魅了するのだろう。「南無阿弥陀仏」を「生ける言葉の仏身なり」と曽我量深先生が表現されてのも頷ける。本尊が生きているか死んでいるか、それは「南無阿弥陀仏」を受け取った人間にしか分からない。そういえば、妙好人の庄松もある住職から、「うちの寺のご本尊は生きているだろうか」と問われて「生きとる生きとる」と答えている。それを聞いて住職は「生きているのに、何もしゃべらんではないか」と応答され、庄松は「ご本尊がしゃべったら、お前らは一時もここに生きておられぬぞ」と答えている。この応答が見事だ。庄松には「生きとる生きとる」と受け取られたが、住職には、そうは受け取れなかったということだ。阿弥陀さんは人間の思いを超えた世界にあり、人間は思いの世界にあるから、住んでいる世界が乖離している。だから人間が生きていると考えるように阿弥陀さんが生きているわけではない。「思いを超えた世界」と「思いの世界」の峻別を庄松は暗示している。仏教語で言えば「機(人)と教(法)」の峻別だ。だからどれほど庄松が「生きとる生きとる」と受け取ったとしても、それは人間が受け取った限りの阿弥陀さんなんだと知っているのだ。〈ほんとう〉の阿弥陀さんは人間には知ることができない。知ることができないものだと教えられることで、阿弥陀さんと触れ合うのだ。これも矛盾した言い方がだ、それしかない。「決して人間には分からんぞ」、というメッセージを訴え続けている、その姿を「生きとる生きとる」と庄松は言いたかったのだ。