今日は、真宗会館での修正会だった。お話のテーマは「自己という名の原始林を拓く」だ。お話しながら、やはり自分は原始林だと思わされた。話す前には、「話はどう展開するのか」、自分には知らされていないから。言葉が生まれてくることが、不思議だ。やはり原始林からの呻きが言葉となって発せられるのだろう。それでも、お話ししていて、楽しかった。もう話の筋なんか、とっちでもよいと、自己規制が緩んでいたからだろう。以前は話が脱線したとか、話が飛んでしまったということが許せなかったが、今日は、そういう邪心も消えていた。もともと自分の話には脈絡などないのだと、開き直ったからかも知れない。阿弥陀さんの奏でる琴であればよいと思った。お話は、自分という琴の響きだが、琴を演奏されているのは阿弥陀さんだから。
親鸞聖人の表現を、阿弥陀さんという鏡を媒介にしていただけばよいのだ。皆さんもそうされているのだろう。阿弥陀さんを媒介にしなければ、「横並びの教え」にはならない。自分の前には道はないのだ。自分の前には阿弥陀さんしかいないのだ。ヨコを見れば、そこにはお釈迦さんも親鸞聖人も、そして皆さんがいる。
今日のお話の中心は、「自己について考えることが個人的なことだと見くびるのは謗法罪である」ということだった。自己について考えることは、公なことであり、宇宙論的である。親鸞聖人が論註を引いて、問答をされている。(『教行信証』信巻)五逆罪よりも謗法罪が重たいと。五逆罪(犯罪の次元)が重たいと考えているひとは、謗法罪は個人的なことだと見くびっていると言っている。「己が事なり」と見くびっている。しかし、五逆罪という倫理的犯罪以上に、謗法罪は重たいと言っている。
それは五逆罪が発生する原因が謗法にあるからだ。だから枝葉ではなく、根っこの罪が重たいのだ。謗法罪とは、簡単に言えば、「神も仏もあるものか」という思いである。私は「仏法が分からんというのは謗法である」と言っている。仏法が分からんでも、何にも困りませんよという思いが謗法のこころだから。阿弥陀さん不要論だから謗法だ。つまり、阿弥陀さん不要論が犯罪の根っこの問題だ。
つまり「いま・ここ・わたし」が阿弥陀さん抜きにして成り立っていると思っていることが罪なのだ。哲学用語では、「時間・空間・主体」が「客観的」にあるものだと思い込んでいることが罪なのだ。これは人間の「恣意的現実」なのだ。
この世に生きているのは私一人しかいないのに、「みんなも生きている」と考えることも罪なのだ。生きているとか死んでいると考えるのも、仮想現実の「生と死」だ。人間は一人称の死を知らないのだから、その反対の「生」を知ってもいないのだ。「生と死」はひとつの意識の裏表であって、同じ事だ。「死」を知らないということは、「生」も知らないのだ。知らないのに「生きてる」とか「死んでいる」と言っているのだから、これは人間界に酔っていることになる。この酔いから覚めるのが〈真・宗〉だ。
覚めるといっても、覚めた世界があるわけではない。自分がいま、酔っているということが分かるだけだ。
やはり、自己について考えることは、世界を考えることであり、宇宙を考えることである。もう一つ言えば、そうやって考えることが、世界を変え、宇宙を変えることにつながるのだろう。
この謗法の徒を、「謗法の徒」として自覚させ、こいつをめがけて阿弥陀さんは鉄槌を下される。やはり、どこまでいっても、自分は原始林だ。