棒の如き、噫(ああ)!

「去年今年 貫く棒の如きもの」は高浜虚子の句らしい。虚子は何を「棒の如き」と感じたのか。おそらく虚子は去年から今年と年が改まっても、その底を一貫しているものを感じ取ったのだろう。つまり決して変質することのない、一貫したものだ。
虚子の、それを詮索するのではなく、その句を自分に引き寄せて感じている。
一貫しているものと言えば、「自己」である。いろいろなものが一貫していると考えることもできるが、それを考えている「自己自身」が一貫しているのだ。デカルトの「我思う故に我あり」の直感がそうだろう。いろんなことを思うが、そう思っている自己自身は疑うことがきないという直感だ。
そこを微細に見ると、「我思う」も「我」が始発点ではなく、「我思わされて、我思う」になっている。「我」が思おうと意志する前に、すでに「我」に「思う」がやってきていることに気付く。それが〈真実〉なのだが、「我」は「我」が始発点だと、これを「思おう」とする。それは間違っている。
 「我」は「思う」以前にあるものだ。生まれたいと思って生まれた者はいないのだから。これが法性から生まれた「我」である。「我」は法性の母体から、一瞬一瞬、オギャーオギャーと生まれ続けている。いつから生まれ始めているのかと言えば、それは「弥陀成仏のこのかたは」からなのだ。これこそ「棒の如きもの」だ。
まど・みちおさんの言う、「ふるいものばかりが 一ばんあたらしい」のだ。
太陽 月 星 そして 雨 風 虹 やまびこ ああ 一ばん ふるいものがかりが どうして いつも こんなに 一ばん あたらしいのだろう」(「どうして いつも」)
これは「我」のことだ、「弥陀成仏のこのかた」からやってきているのだから、「一ばん ふるい」のだ。しかし、それが「一ばん あたらしい」ものだ。それを「ああ」と感嘆している。この「ああ」がなければ、理屈になる。「ああ」は親鸞の「噫(ああ)、弘誓の強縁、多生にも値(もうあ)うことかたし」の「噫」と同じだ。
この「噫」に貫かれ、引きずられていくしかない。「棒の如き」噫に。