「超言語」と「言語」の火花

ようやく年内に、『〈真実〉のデッサンⅡ』と、まっさん塾の講演録の第1校正まで漕ぎ着けることができた。
 昨日の朝、テレビの電源を入れたら、書家・篠田桃紅が出ていた。(今年の3月1日に108歳で亡くなられた)彼女は自分がいま手がけている作品がまだ出来上がらないうちに、もう次の作品の構想が浮かび上がっていると言っていた。だからいまの作品には、それを盛り込めないのだそうだ。これは天才というものの定石だろう。作品は、構想を現象界に定着させたものだが、定着させているときには、もうすでに構想は先に突き進んでいる。だから現象界は、決して構想と一致することはできないし、追いつくこともできない。でも現象界へ定着させる、つまり表現するという作業がなければ、その構想も浮かび上がってこないのだろう。だから、自転車操業なんだ。まあ表現が自転車ならば、構想は新幹線のようなスピードだと思う。
 小生はとても、そんな天才の真似は出来ない。でも、表現が、つまり現象界へ定着させるという作業が、新たな表現を生みだすという程度のことは分かる。桃紅は、構想が先に進んでいるのだろうが、小生は構想などどこにもない。阿弥陀さんが、そのように表現しろと言われるままに、表現しているに過ぎない。人間界では、それを「即興」というのかもしれない。自分で理解している範囲のことを表現しているのではないから、自分でもよく分からないところがある。その曖昧な部分が、現象界に還元されるとよく分かっていなかったということが、よく分かる。
 昨日の夜、テレビに養老孟司が出ていた。彼もその曖昧なところを編集者に突っ込まれていた。思いが先に行ってしまって、表現が意味不明になってしまうのだ。編集者は、常に養老孟司のファンになることを内面で禁じている。いやいや、もっとも近いところにいるコアなファンでなければ編集者などはできないのだが、それを内面で極力排除している。そうしなければ、まったく養老孟司を知らない初心の読者と横並びになれないからだ。コアなファンになればなるほど、曖昧な表現でも「読めてしまう」のだ。だからコアなファンであるのだが、コアなファンになることを極力排除する。これは編集者という職人であれば、常識である。分かるということよりも、分からないということを極力大切にしている。
 曖昧な表現を許さないということは、分からないことを分からないこととして明確に提起する仕事だ。分かってしまう自分を、もう一度分かっていない自分へと引き戻すのだ。これは編集者と作家という関係でもあるが、阿弥陀さんと私の関係でも言えることだ。
 しかし、「分かってしまう」という状態は、言葉を必要としなくなる状態だ。つまり、言語不要であり、言語が消滅していく方向性だ。親鸞が「噫(ああ)、弘誓の強縁、多少にも値(もうあ)いかたく」(『教行信証』総序)と言ったときの「噫」だ。この「噫」がなければ、信仰ではない。しかし「噫」で終わってしまえば、信仰でもない。そこに「超言語」と「言語」の火花が散る。
まあそんな心配はいらないのだ。「噫」も「噫」という言葉なしには成り立たないのだから。