ドンドン可笑しくなったきた

ここのところ、『〈真実〉のデッサンⅡ』の校正と、まっさん塾の講演録の校正作業が重なり、ブログの更新ができていない。仕事には、自分でも抗いがたい優先順位が出来上がっていて、それに従ってことに当たっていかなければならないので、仕方がない。
 それでも19日の「ご命日の集い」と、その後の「ブッディ・サロン」は開催された。ご命日の集いのお勤めをしていて、あれこれと思いが巡った。阿弥陀経から正信偈を上げているとき、聴衆が少ないので、「これだけしか集まらないのか」と、こころの中でぼやいていた。しかし、これもまた阿弥陀さんから反問されてきた。なぜ聴衆が少ないのか。それには様々な理由がある。その中の一つの理由は、ここには〈真実〉があるからだ。人間は赤裸々な〈真実〉には目を背けたくなるからだ。「血も涙もある」ものが好きで、「血も涙もない」赤裸々な〈真実〉は拒絶したいのだ。だから聴衆が少ないのは当然のことなのだ。
 そんなことを思っていたら、また違った思いがやってきた。こんな大きな声でお経を上げているという、この行為がまったく「機能的ではない」と思えたのだ。なんで、こんな大きな声で唱えるのか。目を開けて見ると、本堂の内陣は、まったく「機能的な世界」とは異質の世界が展開していた。娑婆とは正反対だ。娑婆は「機能的な世界」を目指してるが、ここはまったく機能的じゃない。この内陣で大声を出していることが、妙に面白くなってきた。首をフリフリ、正信偈を上げていると、ドンドン可笑しくなってきた。このまま突き進むと、「踊り念仏」の一遍の世界へ突入していく。でも、楽しいときには身体を揺すってお経をあげることもよいもんだ。「板東節」というのも、ある。あれは儀式になってしまったから窮屈だろうけど。私のは自由なパフォーマンスだから、形はない。ただリズムに合わせて、身体を揺らしているだけだ。これは心地よい。
 娑婆と、ますますかけ離れていく快感がやってきた。これが読経の楽しさだ。
しかし、本は、年内の出版は難しい。年明け早々に印刷になるだろう。