「三帰依文」への違和感

真宗の法話の前には、「三帰依文」を唱えることが習慣化している。私も法話の前に唱えるのだが、その文中の「我いま見聞し受持することを得たり」は削除して唱えないことにしている。「三帰依文」をよくご存じの門徒は、「あれっ!」と思われる。「この講師はあの部分を忘れてしまったのではないか」と。初めてお話しする会場では、そのことの意味を説明するのだが、もう皆さんご存じだと思って言わないこともある。そうすると、やはり、「三帰依文」を間違えたのではないかと訝しく思われる。
 私も長年「三帰依文」を削除せずに読んできた。しかし、唱えながら、「我いま見聞し受持することを得たり」を読む段になると、「どうも変だな、何か違うな」と違和感を感じていたのだ。なぜなら、「我いま見聞し受持することを得たり」とは、「私はいま、〈真実〉を見て聞いて受け取ることができました。」という意味だからだ。しかし、親鸞の直感した〈真宗〉は、信仰を過去形で語ることを拒否するものだ。だから「受持することを得たり」と過去形で得たことを語ることはできない。まして「我いま」と高らかに宣言することなどできない。過去形で語ったり、高らかに受持を宣言するこころを解体するのが〈真宗〉だと思うからだ。そうやって〈真宗〉が私に対して、「受持することを得たり」と唱えることへ違和感を感じさせていたのだと思われる。その〈真宗〉の促しに素直に従うようになってから、その部分は割愛させてもらっている。だから「無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇(あいあ)うこと難し。」に続けて「願わくは如来の真実義を解したてまつらん」と唱える。このように読むと、とても気持ちがよい。ようやく自分の本心に近い形の「三帰依文」になったと思っている。
 しかし、「受持することを得たり」と高らかに受持を宣言できるような者にならなければ、とても説法などできるものかと叱られることもある。まあそうお思いのかたは、そう思われておられれば、それでよい。私は否定しない。でも、親鸞が「因位」にこだわったのは、「我が得たり」という思いを解体されるベクトルではないか。「我が得たり」という思いが解体されて、すべてが阿弥陀さんに奪い取られるのだ。奪い取られて、こっちには何も残らないようになって、晴れ晴れとさせられるのだ。
 しかし、親鸞も「浄土和讃」の「弥陀の名号となえつつ 信心まことにうるひとは 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもいあり」で、「信心まことにうるひとは」と言っているではないかと批判されるかも知れない。「うる」と言うのは「受持することを得たり」と同じ意味ではないかと。まあ親鸞がどういうつもりでそう述べたのかは分からないし、それは二次的な問題だ。ただ親鸞は必ず「因位」と「果位」で「うる」を考えている。「因位」の表現は、『一念多念文意』で「歓喜」について「うべきことをえてんずと、さきだちて、かねてよろこぶこころなり」と言っている。和漢混淆文で表せば「得べきことを、得てんずと、先立ちて、予て喜ぶ心なり」だ。また「果位」の表現は、「慶喜」で「うべきことをえて、のちによろこぶこころなり」と言う。これも変換すれば、「得べきことを得て、後に喜ぶ心なり」だ。この「果位」の表現は常識である。信心を得ることができた後に喜ぶのだから。品物をもらって喜ぶのと同じだ。
 しかし親鸞の真骨頂は「因位」の表現だ。「得られるだろうと、予期して、前もって喜ぶ」というのが「因位」の意味だ。これは常識ではないから、理解が難しい。これを説明するためによく使われる譬喩が、「休日の前の晩」だ。明日がお休みだと分かったときの晩は、こころが軽くなりウキウキしてくる。まだ休日が当日になってはいないのに、予て先取りして、前の晩にそのことを喜ぶのは、誰しも経験があるから、なるほどと分かる。しかし、これは信心の話だから、欲界のことではない。もし欲界の表現に換言すれば、「やがて信心が得られるだろうと予て喜ぶ」となる。でも、実際にはまだ得られていないのだから、喜びにはならないだろう。得られていないのだから、信心とはどういうことかも分からないし、やはり不満足になるのではないか。「休日の前の晩」の譬えで言えば、休日が当日になれば、前の晩ほどには喜びがなくなってしまう。むしろ休日が終わった翌日の仕事の時間が迫ってくるのだから、悲しさすら感じる。その悲しさから救うために、敢えて当日にならないように、「休日の前の晩」の状態を維持しようとしてくるのが阿弥陀さんだ。「因位」のままの状態で、決して「果位」にならないようにはたらいている。阿弥陀さんが具体的に関わってくださるのだから、「果位」にならないことが不満足にはならない。「因位」のままで満たされる。むしろ「果位」の具体的なはたらきが「因位」だったのである。
 私は親鸞の直感した「因位」は、「信ぜよ」という命令だと思う。まあ親鸞も「本願招喚の勅命」(『教行信証・行巻)と言っているから、確かに命令なのだ。常識で考えれば、「信ぜよ」が私に成り立ったときには「信ずる」か「信じた」になりそうなものだが、そうはならない。「信ぜよ」が「信ぜよ」のままに私に成り立つのが「信」だ。ここが「平等の信」と言われる所以だ。人間に「信」が成り立ってしまったら、それは「平等の信」にはならない。決して人間には成り立たないから「平等の信」なのだ。「信」は如来のみに属す。だから人間の内部には確保できない。つねに人間の外部から、「信ぜよ」と関わってくるものが「信」だ。太陽のひかりのように、向こうから照らしてくるものであって、それに照らされるだけだ。太陽のひかりだから、それは「本願」だ。この「本願」こそが「信」の本質なのだ。「信」とは「願」のことだったのだ。
 それでは我々は「信じなくてよいのか」と言われれば、それも違う。そういうふうに問うことそのものが、「信」を人間が獲得できるという前提で問うているからだ。または、自分で自分を慰めるように、「人間には信ずることはできないのだ。だから信じなくてよいのだ」というのも違う。それも信ずることを人間の能力のように誤解している発想だ。いずれにしても発想の根拠を自分に置いていることが「信」ではない証拠だ。
「信ぜよ」は、その発想の根拠が自分ではなくなることだ。それを「自分を信ずるな」と私は言ったりする。どこまでも、「信」を人間の能力のように考える、その発想を抛てというはたらきが「信ぜよ」なのだ。まあどこまでも信を獲得できる能力だと勘違いしているから、阿弥陀さんが信を知らせる方法として「外部からの命令」で「信ぜよ」と言ったのだ。徹底的に外部から命令されることで、「信じようとする思い」が解体される。
 「信」を「おまかせ」というメタファーでも語るのだが、これも「自分というものがまずあって、その自分がおまかせする」と発想してしまう。そういうふうにしか受け取れなくできているのが人間の哀れさだ。「人生いろいろなことがあっても、後はおまかせしかありませんね」などと言ってしまうこともある。その言い方は臨床の場面では確かに正しいのだが、違和感も感じる。それは「後はおまかせしかありません」という表現に対してだ。もっと言えば、「後は」という言い方だ。〈ほんとう〉は、最初から「おまかせ」だったのではないか。自分のこころが「おまかせ」に気付く以前から、身体は「おまかせ」して誕生してきたのだから。一番身近な、代替え不能な、この身体から、私は「おまかせ」を教えられる。自分が気付く以前からとは、「弥陀成仏のこのかた」からだ。こころはどこまでも「おまかせ」できないでいる。でもそれを哀れんで「まかせよ」と永遠から叫んでおられるのが阿弥陀さんだったのだ。
 ついでにもう一つの違和感についても述べておくことにする。それは「三帰依文」の「自ら僧に帰依したてまつる」だ。仏法は「三宝帰依」が大前提になっているように思わされてきた。「仏・法・僧」が三つの宝だと。「さとりを開いた人(仏buddha)
と、その教え(法dharma)と、それを奉ずる教団(僧samgha)という三つをいう。仏(さとりを開いた教えの主)・法(その教えの内容)・僧(その教えを受けて修行する集団)の三つを宝にたとえた語」(『仏教語大辞典』中村元)と言われる。仏教は釈迦という一人の男から出発した教えだ。彼が覚りを開き、覚りの内容を語り出し、それに共鳴する五人の仲間ができ、やがて集団化していく。「僧」の説明には、こうある。「samghaの音写語である僧伽の略。衆・和合衆と漢訳する。三宝の一つ。団体の意味で、比丘の団体をさす。すなわち三人か五人以上の比丘がいっしょに集まって修行する団体のこと。つどい。」(同書)などとある。つまり、個人を指して「僧」とは言わない。必ず「集団」を意味していた。いまではお坊さん個人を「僧」とか「僧侶」と言っているが、それは誤用である。それも「比丘」の集団だから、「出家者の集まり」という意味だ。それを踏まえて、この「自ら僧に帰依したてまつる」を唱えるとき、自分の位置づけをどこに置くかが問題だ。
 一般的な意味空間は、自分を「在家」に位置づけ「僧」を「出家者の集団」と見る見方だ。これは東南アジアでいまでもよく見かける意味空間だ。出家者は毎朝、托鉢にでかけ、在家者は彼らに布施をするという関係だ。仏教の初期段階では、このような位置づけになっていたようだ。在家者は出家者に物を布施する(財施)、出家者は「求道」を専門職として、そこから得られた思想を在家者に与えた(法施)。そもそも真宗は在家仏教だから、この意味空間で唱えてはいないだろう。そうするとどうなるか。それでも、「教団」を組織しているのだから、「在家者と出家者集団」とは言わないが、「在家者と真宗僧侶集団」という二分法の意識があるのではないか。そこに自分を位置づけると、自分は「真宗僧侶集団」の内部にあり、その集団を「僧」として、外部にある在家者集団は「僧に帰依したてまつる」と言うのだろうか。そうなると自分は「帰依」を受ける対象になってしまう。しかしこれも間違った位置づけだ。
 そもそもこの「帰依」をする対象となる「僧」をどう位置づけるかだ。自分を「僧」の内部に位置づけてしまうと、自分が「僧である自分」に「帰依」するという矛盾が生まれる。「僧」を「教団」と意味づけても、その中に自分はいるのだから、これもおかしなことになる。だから、自分は「僧」の外部になければならない。外部にあるから、それに向かって「帰依」をすることが成り立つ。曽我量深先生も、そこで苦心され、「僧」を拡大解釈され「一切衆生」と意味づけた。もちろん自分も「一切衆生」の仲間なのだが、その自分が「一切衆生」に「帰依」をすると。つまり、「一切衆生」は阿弥陀さんの化身であり、私に仏法を教え導くはたらきをされている。この「一切衆生」に教え導かれていきますという意味で「僧に帰依したてまつる」と言ったのだろう。
こうなると、自分は「阿弥陀さんの化身としての一切衆生」の内部にはいないことになる。外部にいるから、「帰依」が起こる。いや、「阿弥陀さんの化身としての一切衆生」とは我が身体のことではないか。我が身体は私の思いを超えている阿弥陀さんからの賜物だ。曽我先生は、この身体に「一切衆生」を感じ取ったのではないか。それに対して「帰依」をするのは「我が自力のこころ」だろう。身体を我が物と思い込んでいる傲慢な「自力のこころ」が「帰依」せねばならないのだろう。
 そこまで苦心して再解釈をしなければならないほどに「僧に帰依したてまつる」は問題があるのだ。だから「三帰依文」のあの箇所にさしかかると、いつも違和感を感じてしまう。もちろん「信心の行者」にとっての「仏」とは釈迦ではなく、「阿弥陀さん」だし、法は「南無阿弥陀仏」だ。我々にとっては、この二つで十分なのではないか。つまり「三宝」ではなく、「二宝」でよいのではないか。もっと言えば「法」である「南無阿弥陀仏」だけでよいのではないか。こうなると「一宝」でよい。そう言えばこれを自分の名前にしていた東京の妙好人がおられた。残念なことだが、既に亡くなられた「山上一宝」さんだ。彼が生前には、このことにも思い及ばなかった。失礼なことをした。「一宝」とは「南無阿弥陀仏」のことであり、「信心の行者」にとって「三宝」は不用、「一宝」で十分だと彼の存在が訴えていたのだろう。