やがて死ぬんではないか、という思いも噂だったとは。
既成概念が解体させられることを〈真宗〉というのだが、それがもう少し深い感受性までに浸透してきたような感じだ。親鸞も「いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。」(歎異抄・第九条)と言っているけれど、この「煩悩の所為」が、ありありと浮き彫りにされてきた。以前は、ちょっと体調を崩すと、死ぬんではないかという思いがフッと沸き起こることもある。確かにそんなこともあるよなと思うくらいの知り方だった。その知り方が、もう少し深まったようだ。
いつも言うように一人称の「死」は体験できないので、どこまで突き詰めても「死」は「他者の死」でしかない。だから「死」は生者の思いの中にしか存在しない。「死」が生理的、または客観的な「事実」だと思い込んでいるだけで、それは〈ほんとう〉ではない。その思い込みを前提にして、他者の「死」を自分自身に当てはめて見ているに過ぎない。
そうやって覚めて見ると、「生」というのもずいぶんとあやふやなものだと感じられる。昨日もある高校の先生から、電話が入り、私の作った「いのち」(「生と死」が上下で一字にくっついた文字。これをパソコンでは表現できないのが悔しい)について質問を受けた。『いのち(生と死合体文字)の残光』(因速寺出版)という本で、この文字を使われていて、この文字について本山(東本願寺)に問い合わせたら、因速寺の住職が作った文字だと教えられ、いま電話した次第ですと。そしてこの文字を作られた意味とこの文字の使用許可願いを受けた。私はいつものように「命」と「いのち(生と死合体文字)」の違いについて語った。ただし、この文字を思いついたひとは日本に数人おられるらしく、決して私だけが思いついた文字ではないことを付け加えた。それでもこの文字を「いのち」と読んだのは私だけではないかとも伝えた。いろいろと理由を話して、この文字をドンドン使って下さいと話した。それでもこの文字はとても扱いの微妙なところがあって、ご注意下さいとも言った。まああくまで私の問題提起どまりですと。
それでもこの文字が高校生のこころのどこかにインパクトを与えられたらすごいことだ。まあ中には池田晶子さんのようなお子さんもおられるだろうから、私と同じようにこの文字に気付いたひともいるかもしれない。この文字は「いのち」について考えたことのあるひとなら、「なんだ当たり前じゃないか」と思われる程度のものだ。
死ぬことが噂だと気付いてしまったら、次に待っているのが、その裏返しの「生」をどう意味づけるかだ。もちろん「死ぬために生きている」という目的論はすでに解体されているから、有効ではない。それを直感的に「零度の存在」とか「存在の零度」という言葉で私は補ってきた。それは「ため論」を排除するためだ。「ため論」とは、「それは〇〇のため」と考える発想だ。つまり「生は死ぬため」とか、「この生は往生するためのもの」という発想だ。これを「意味づけ」と言ってもよい。「ため論」は意味づけしなければ心が収まらない。それは「貪欲(末那識)」だから。しかし「ため論」が悪いのは、〈いま〉を未来のための手段に変えてしまうからだ。未来のために〈いま〉を変えてしまうと、〈いま〉は〈いま〉自身である輝きを失う。
まあそんなことを言っても、〈いま〉なんか人間は見たことがないのだ。〈いま〉という言葉があっても、〈いま〉を知らないのが人間だ。〈いま〉を〈いま〉だと人間が認識したら、もうその〈いま〉は過去の出来事に変わってしまうから。だからその過去を何とか意味づけして「ため論」へと落とし込んでいくのだ。
「西洋的資本主義」という欲望をエネルギーにした社会はどこへ向かっていくのか。はたまた中国という巨大な煩悩の塊はどこへ向かおうとしているのか。両者ともに、何を目的にしているのだろうか。眼を微視的にして、いま子育てに振り回されている親を見れば、自分の時間も取れずに子育てを強いられている状況をどう意味づけるのだろうか。それはやはり、すべては「子どものため」という「ため論」に落とし込むしかないだろう。しかし、そうやって自分を慰めているだけで、本質とはズレている。本質は「そうせざるを得ないからそうしている」というだけのことなのだ。子どもが二階のベランダから身を乗り出そうとしていたら、思わず駆け寄って抱きかかえ身体を確保するのだ。そうせざるを得ないのだ。思いよりも先に身が動くのだ。
それを「業縁」という。そうせざるを得ない状況を引き起こしているのが「業縁」だ。だから一つ一つの行為は、一つ一つの行為自身が全うしているのだった。それら全体を俯瞰して「ため論」へ落とし込む必要もないのだ。
もちろん「往生」や「成仏道」も、「ため論」で解釈したら間違ってしまうだろう。つまり、〈いま〉の自分は「往生」するためだと理解したら、それは間違ってしまう。一つ一つの行為は一つ一つの行為が成り立った時点で完結している。それを意味づけるときに「往生」という目的論に結びつけるだけだ。浄土教が利用する表層の救済物語は、「往生」を目的のようにして語ることになっている。これは演劇空間の物語と同じで、やはり物語には起承転結がなければならない。ただこの物語が面白いのは、「この世」の外部に目的を建てているところだ。まあ宗教一般は「この世」を超えたところに目的を設定する。でも浄土教が語る「往生」はあくまでメタファーであり、客観的というか、実体的に「この世」を超えた世界を語っているわけではない。言えば「この世」でも「あの世」でもないことを語るのだ。私たちは「この世」は既に知っているが、「あの世」は分からないと思い込んでいる。しかし、あなたが既に知っている「この世」も、〈ほんとう〉は分からないのではないかと揺さぶりを掛けてくるのが〈真宗〉だ。
それでもひとから「ため論」の枠組みで問われれば、それには「往生するため」というふうに答えるしかない。しかしその「ため」は、何かに成るわけでも、どこかへ行くわけでもないことを前提にした「ため」なのだ。一気に結論づければ、「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」(『浄土和讃』)と言われる、〈いま〉を開くためなのだ。この〈いま〉は刹那的な〈いま〉ではなく、「〈永遠のいま〉」である。永遠が表現している〈いま〉なのだ。無限の過去と無限の未来とが生み出す〈いま〉である。〈いま〉が〈いま〉自身を成就している純粋な〈いま〉である。それは決して過去に飲み込まれることもなく、また未だ満たされない未来を待望する必要もない。そんな〈いま〉を与えるのだが、これを人間は見ることができない。〈いま〉が与えられた瞬間に、煩悩でそれを受け取ってしまうからだ。「御恩」を感じた途端に、煩悩は、それを「御利益」という利害に変えてしまうようなものだ。
最後は「零度の存在」に吸い込まれていくのだ。「零度の存在に成っていく」と書こうとして、それをやめた。「成っていく」と書けば、また「ため論」になる危険を感じたからだ。それで「吸い込まれていく」という表現に落ち着いた。「零度の存在」とは、よく譬えに使う「ドーナツの穴」のようなものだ。穴はあらゆるものが吸い込まれていくブラックホールだ。時間や空間の観念も、自分が思い描くことのできるすべてが、そこへと吸い込まれていく。
「存在の零度」から生み出され、「零度の存在」として「この世」に留まり、また「存在の零度」へ吸い込まれていく。そんな物語を〈真実〉は演出しているのかも知れない。いずれにして、人生は自分から出発してはいないので、あらゆることはすべて阿弥陀さんのせいなのだ。阿弥陀さんの一人働きなのだ。それもこれも阿弥陀さんの奏でる琴となったところからの響きである。