〈真宗〉は山登りに似ている。さあこれから信心の山を登るぞと思って山を登り始める。これは「発菩提心」だ。菩提心を発して信心を求め始める。登り始めた当初は、まだ気力体力も十分にみなぎっているから苦しい中にも楽しみがある。しかし何十年も登ってくると、段々と疲れが溜まり、登ることに飽きてくる。また登るのが当たり前になり、登っていることすら忘れてしまうような状態だ。これを「七地沈空」という。つまり信仰のマンネリズムが起こってくる。自分は長年、山を登ってきたように思ったが、それは空回りで、実は登山口でウロウロしていただけなのではないかと覚めてしまう。
信心の山登りは、面白いことに登山口から一歩登ると頂上は一歩遠のく。百歩登れば百歩遠のいていく。比叡山であれば、一歩登れば頂上は一歩近づく、しかし信心の山はそうはいかない。近づこうとすればするほど遠のいていく。だから永遠に頂上にたどり着くことができないようになっている。しかしそれでお終いではない。
そんなカラクリがあったのかと驚嘆すると、登山口が一気に頂上に変わってしまう。まさかここが頂上だったのかと驚く。さあ信心を求めるぞと菩提心を発す前に、すでに頂上にいたのか。実は「さあ求めるぞ」と思うことが、頂上を遠ざけていたのだった。だから求めれば求めるほど頂上は遠のく。そのカラクリに気がつくと、頂上からの眺めをいただける。それはこの世(時間・空間)全体が阿弥陀さんの身体だったという眺めだ。それを「荘厳」とも言う。阿弥陀さんを表現するための飾りだ。
しかし、その頂上にいつまでも留まることを許さないのが〈真宗〉だ。頂上だと思って一息つこうとした途端に、また登山口に戻される。つまり、仏も法もないような世界だ。信心の山を登っているようなつもりでいたが、そんなのは嘘っぱちだと批判される。親鸞の言葉で言えば「恥ずべし、傷むべし」と表現せざるを得ない働きに圧倒される。「愛欲の広海」と「名利の太山」と親鸞は吐露している。そこまで引き戻されて、ようやく信心の山という幻想から覚めることができる。
妙好人・庄松は法主から「汝(そち)は信を頂いたか」と問われた。それに庄松は「へえ頂きました」と答えたら、法主はさらに「その得られた相(すがた)を一言申せ」と迫ってきた。それに対して庄松は「なんともない」と答えている。この「なんともない」という応答が見事に、親鸞の「恥ずべし、傷むべし」と呼応する。いままで信心が得られなけば夜も日も明けないような状態だったものが、「なんともない」と言えるようになった。それは信心が得られるだろうと思って生きてきたことが根こそぎひっくり返されて、阿弥陀一人働きだったと覚めたのだ。もし自分の努力の結果に得られたものなら、喜びもひとしおだろうが、それもこれもすべては阿弥陀さんの一人働きだから自分とは無関係だ。そこに「機法の峻別」が見事に成り立っている。
庄松さんだって流動的な存在だから、一度は信を得て喜んだに違いないのだ。ただそこに留まらせないのが阿弥陀さんだから、再び「なんともない」という世界へ帰ることができたのだ。庄松のこころのなかにどんなことが起ころうとも、すべては阿弥陀さんにおまかせされているということだ。どんな感情がやってこようとも、またどんな考えがやってこようとも、それもこれも自分に根拠はないのだ。すべてが阿弥陀さんの言いなりなのだ。「これが自分だ」と思うことも阿弥陀さんにそう思わされて思っているだけのことだ。自分に根拠はない。だから阿弥陀さんからいただく、お余りをもらっていけばよいのだ。
もっと言えば〈真宗〉は登山口(因)と頂上(果)の往還運動なのかもしれない。「さあこれから」と言えば「もう済んでいる」と応答される。「もう済んでいるのか」と言えば、「まだ始まってもいない」と応答される。いずれにしても、人間には信心を、永遠につかませないように出来ているのだ。つかんだものは腐るから、つかませないようにして、いつでも鮮度のよい〈真宗〉を与え続けようする阿弥陀さんの大いなるご親切なのだ。