意志が海に溶解する

どうも我々、「真宗教団」という「共同幻想」の内部にいる人間は、親鸞を出発点にしてしまう。それは仕方のないことかもしれない。生まれたときに、すでにして親鸞が日常生活の中にあったからだ。いわば「親鸞」という遺産がすでにあって、それを食い潰していると言った有様だ。だから、その「親鸞」をもう一度解体して、自分の「ヨコ」に置き直さなければならないという手続きを踏まなければならない。安田理深先生が「共同幻想」から覚めて見ると、『仏説無量寿経』が「真実の教」だなどとは読めないというふうなことを言っていた。親鸞は「真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり。」(『教行信証』教巻)と言っているから、『大無量寿経』が「真実の教」だという前提で、その意味を考えてしまう。そして『大無量寿経』の何を持って親鸞は「真実の教」と言ったのだと発想してしまう。もう親鸞の表現が既にあるものだから、その表現を前提にして考えようとする。しかし、それは違うのだ。安田先生は、『大無量寿経』が「真実の教」だと親鸞が見いだしたところに驚かなければならないと言っている。だいたい救いを求めるのであれば、『観無量寿経』が「真実の教」と見えるのではないかと。『観経』(観無量寿経)には浄土を求める方法が16の観法として述べられているのだから、あれを手がかりにするのがまっとうな接近法だ。だから『大経』(大無量寿経)が「真実の教」などとは読めないのではないかと。『大経』には阿弥陀さんの本願の物語が書かれているだけで、救いへ接近するための方法論は詳述されていないのだから。それなのになぜ親鸞は『大経』を「真実の教」として見いだせたのか。これは「救いへ接近するための方法論」を捨てて、「救いの物語」に〈真実〉を見いだしたということではないか。もっと簡略に言えば、「行」を捨て「願」に〈真実〉を見たということだ。もっと言えば、こちらから〈真実〉に接近しようとするベクトルが捨てられ、全宇宙がすでにして〈真実〉を表現していたことに目覚めたのだ。「行」のベクトルは「いかにして」という欲求だが、「願」はそれを「すでにして」包んでいたというベクトルで、その欲求を解体する。親鸞の言葉で言えば、「雑行を棄てて本願に帰す」(『教行信証』後序)という大転換が、そこにあったことになる。
普通、信仰に接近するには方法が必要になる。その方法をどこに見いだすかと言えば、自分の行為だ。自分の行為の出発点は自分の意志だから、意志を出発点としてしまう。ところが本願の物語は、その見方を解体する。もう本願の海の中にあなたはいたのだと。錐の切っ先のように自分一人でとがって求めていた精神が、大海原の中に溶解されていくようだ。信仰は「自分」を出発点としてこれから獲得されるものではない。もうすでにして、その大海の中にいたことに驚嘆することなのだ。