名古屋でお話のあとに質問したひとがいた。お話の中で、私は「自分の前には道はない。自分の後にしか道はできない」と言ったが、親鸞聖人は「すでにこの道あり」(『教行信証』)で書いていると、これをどう考えればよいのかと。まあ、「道」という言葉もメタファーだ。隠喩だから、我々がイメージする「道路」を用いて信仰を表現しているに過ぎない。禅の『無門関』にも「大道無門」という有名な言葉がある。「大道」だから覚りは普遍的に公開された世界だが、そこに入るための門はないと。なんとも禅的な表現だ。裏を返せば、「無」という門があるという意味なのだろう。
親鸞は和讃で「万行諸善の小路より 本願一実の大道に 帰入しぬれば涅槃の さとりはすなわちひらくなり」(曇鸞讃)と述べている。また「白道四五寸釈」(教行信証・信巻)では、それを解説するように、「『道』の言は、路に対せるなり。『道』は、すなわちこれ本願一実の直道、大般涅槃無上の大道なり。『路』は、すなわちこれ二乗・三乗・万善諸行の小路なり。」(同)と述べている。ここでは「道」に「大道」と「小路」とを対比して、「本願と万善諸行」に振り当てている。小道よりは広く大きな道のほうが救いの普遍性があるという隠喩だ。この「大・小」という対比はいろいろなことに譬喩として使われる。代表的なものは「大乗・小乗」だろう。大乗は大きな乗り物、小乗は小さな乗り物という意味で、大きな乗り物は救いの普遍性があると主張するための譬喩だ。まあこれは大乗が自分たちの正当性を主張するために、自分たち以外の教派を「小乗」と呼んで貶しただけだ。
それはともかく、私はその問いに対して、〈真宗〉で言う「道」の広さは「三六〇度」とお応えした。親鸞は「大道」の道幅を述べてはいない。小路に比べて広いというだけだが、私はその道幅を「三六〇度」と述べた。道幅だからメートルと言わなければならないのだろうが、私はそれに角度で応えた。だから私の見渡す限りが道である。そうならなければ「いつでも・どこでも・だれでも」にならないからだ。こうなると「道」というイメージを超えてしまう。広場とか世界とか、空間を表すことになる。親鸞も「道」と言ってみたり「海」と言ったりする。「海」であればやはり「空間」だ。「本願の海」であると同時に「生死海」「群生海」「難度海」であると述べている。海にはどんな大きな河が流れていても、必ず塩味に変えてしまう変換作用をイメージしている。「転悪成徳」という。「悪を転じて徳と成す」だ。これは我々の出す結論をすべて解体する力をイメージしている。「〇〇は、こうに違いない。」と思ってしまう。そう思わないと生きていけないと思っている。つまり、我々は見渡す限りの世界を自分の目に映ったとおりに存在すると結論づけて暮らしている。だから、これが人間という生き物の私が見た「特殊な世界」だとは思わない。その「当たり前にある世界」を転じて、「特殊な世界」だと教えることで、「当たり前」を解体する。なんのためかは分からないが、「本願」とはそういうはたらきをする。それが〈真実〉というメタファーで表現される運動だからだろう。親鸞も私と同じように、この〈真実〉に取り憑かれた男だったのだろう。※(『底抜け語録』の「人間は『さあこれから』と考え 佛は『すでにして』と応える」を参照)