報恩講は問恩講

もう45年前になるが、私は京都・大谷専修学院に在学していた。当然、大谷派の住職の資格である「教師」を取得することになる。そのためには学院のカリキュラム以外に、東本願寺(本山)に二週間泊まり込む「修練」というものを受けなければならない。そこで印象的なエピソードを思い出したので記しておきたい。専修学院(本科)は一年で卒業するのだが、そこに集まった学生はさまざまなひとたちだ。受験資格は高校卒業だから、18歳からなのだが、上限の年齢は決められていない。私が入学したときには、高校を卒業した若者から、定年退職した60代後半のひとまでがいた。同じ班の中には、西陣織のお店のご隠居がいた。なぜ彼が教師資格を取らなければならなかったのかは知るよしもない。まあ仏教を本格的に学びたいということだったのかもしれない。専修学院の敷居は低く、よほどの理由がなければ入学を拒否しないから、彼も入学を許されたのだろう。
 そのご隠居が修練に参加したのだが、そこで問題が起こった。彼には持論があって、「水の神さま、火の神さま、お天道様の御利益は受けているが、見たこともない阿弥陀さんから受けた御利益はない」と言い張ったのだ。これが本山の修練スタッフで問題となり、彼には教師の資格を与えることはできないと判断された。そのことが学院にも知らされ、信国淳院長ほか教師陣が本山に出向き、釈明しなければならない羽目になったと聞く。その顛末は、彼が持論を引っ込め、無事に修練を終えることができたそうだ。
 しかし、面白い問題提起ではないか。確かにご隠居の言い分にも一理ある。水や火や太陽がなければ私たちの生活は一日も成り立たない。だからそれらの恩恵は受けているが、見たこともない阿弥陀さんの恩恵は受けていないと。このことは、「あなたは阿弥陀さんからどんな恩恵を受けているのか」という問いとなって返ってくる。それが明確にならなければ、そのご隠居を批判することはできない。
 私たちは、自己を優遇してくれるものを「御利益」と呼ぶ。そうなると火や水や太陽ばかりではない、あらゆるものが私のいのちを支えてくれているのだから「御利益」の中に住んでいることになる。ただし、自分に「利益」を与えてくれないものは「御利益」とは呼べない。あらゆるものに支えられている私のいのちだが、それがそのまま「生老病死」のいのちであることが、ご隠居の眼に入っていない。つまりいいとこ取りで「御利益」を考えている。「生老病死」をも包んだ「御利益」にならなければ、それは本当の「御利益」ではないと批判してくれるのが「阿弥陀さん」だ。まあ、「御利益」を感じるのは人間の「利害損得心」なのだから。これが問題にならなければ〈真宗〉ではない。
 親鸞も「現生十種の益」を述べているが、これらはすべて信仰の内側で感じられる利益だから、人間界では利益としてカウントされないものだ。その中の「知恩報徳の益」などは、一言で言えば「仏法こそが楽しみになること」だから、仏法を喜んでいないひとには利益でもなんでもない。またそんなものなど欲しくもないのだ。だから利益などと言ってもらっては困るというくらいのものだろう。
 三条別院の報恩講法話に行ってきた。今年はコロナの影響で人数制限をしての開催だった。そのせいか二年前の熱気は失せていたように感じた。それでもこれを支えるスタッフは精一杯やられていた。一番よいのは「別院の報恩講」を我が寺のことのように愛しておられるところだ。そして報恩講を楽しんでおられた。これが「知恩報徳の益」ではないかと拝察した。苦心の荘厳としては、地域のお店とコラボされていることろだ。「御取り越し」や「報恩講」とレッテルを貼ったお酒や、名物「別院さんの辛味噌」など。寺だけでなく地域と一体になって「荘厳」を生み出されていた。
 私の内面でいただいていたテーマは「報恩講は問恩講」だ。親鸞聖人や阿弥陀さんからどんな御恩を受けているのかを問うというのが報恩講の趣旨だ。これはご隠居から受け取った問題提起でもある。そうやって自分の内面を見渡してみても、何もないのだ。これだというものが見つからない。そして最後に残った確かなものが、月並みだが「南無阿弥陀仏」ひとつだった。
 南無阿弥陀仏には三つの意味があるとお話しした。南無阿弥陀仏は私の本当の名前であり、親である阿弥陀さんの本当の名前であり、私を助けて下さる法則であると。南無阿弥陀仏は私を呼んで下さる阿弥陀さんの呼び声だ。お前の本当の名前は南無阿弥陀仏だぞとおっしゃる。そう言われても困るのだが、阿弥陀さんは四六時中、そうやって呼んで下さっている。こっちは忘れていても、向こうは忘れていない。脇目も振らずに私だけを見つめて生きなさいと呼び続けて下さる。つまり「唯一無二である自己一人の後生の一大事」だけを究極の問題として生きなさいと叫んで下さる。私をこの世に生み出した、本当の親は、何十億年という時間を掛けて私を育ててきたのだ。私は誕生から始まったわけではない。何十億年という時間をかけて、私を探しなさいと養育して下さった。だから、これが「本当の御利益」なのかどうかは分からない。もう「御利益」という言葉も木っ端微塵に粉砕されてしまったようだ。「御利益」などという呑気なことが言えなくなるのが報恩講だ。そもそも「身を粉にしても報ず」るような御恩をこれっぱかしも感じていないのだから。私が「御恩」と感じる取るのは、「利害損得心」が感じているだけのことだ。それすらも超えさせてくれるものが報恩講だ。
 御恩を感じられない者こそが報恩講の正客だが、そう言い放ってしまうと、今度は、「御恩を感じられなくてもよいのだ」と自分で自分を許す「造悪無碍」が起こる。まあそれすらも捨て置き、超えさせて下さるのが阿弥陀さんだ。どこまでも脇目も振らずに、私だけを見つめて行きなさいと呼んで下さっている。そして常に「弥陀成仏のこのかたは いまに十劫をへたまえり」という言葉を私に降り注いで下さる。お前と私は十劫という永遠の昔から親子関係だったのだぞ、そのことを忘れるなよ、この十劫という時間が、開かれるのは〈いま〉だぞ、〈いま〉しかないぞと言う。永遠の昔から、この〈いま〉は流れていくことがない〈いま〉だぞ、〈いま〉以外にお前は生きていないのだぞと。