祭りの余韻

昨日、因速寺の報恩講が勤まった。参詣人はおよそ60名ほどだった。コロナが収まりつつあるとは言え、これほどの方々が集まるとは予想していなかった。やはり、皆さん、対面形式による仏法聴聞に飢えていたのだろう。仏法聴聞とは話し手の話を、ただ聞くという受動的なことではない。たとえ形式としては話し手の言葉を聞くのだが、聞くことで、各人の中にある「法性」が響き、各人の中で、それぞれの「仏法」が創造されるのだ。だから「聞く」ということは創造的な行為なのだ。話し手も主体的に話しているように表面上は見えて、実は受動的な行為だ。なぜ受動的かと言えば、聴衆がいなければ話が生まれてこないからだ。聴衆の無言の吸引力が話し手から言葉を引き出してくるのだ。だから受動的だ。聴聞の場は話し手の言葉と聴衆の吸引力とによって成り立つ相互創造行為だ。それも一時間ほどの時間だけに生まれる微かな創造行為だ。空に掛かる虹が、やがて消えていくように、聴聞の場も、やがて消えていき、本堂には誰もいなくなる。ああ、これは「色即是空」だ。創造された聴聞空間は、それがそのまま「空」、つまり無実体の空間に戻る。皆さんが去った後の、あの空寂とした空間には温かさだけが残っている。「まぼろしのごこくなる一期なり」(蓮如「白骨の御文」)という言葉が聞こえてきた。報恩講を誰がほんとうに喜んでいるのだろうかと言えば、煎じ詰めると「阿弥陀さん」だった。阿弥陀さんだけが、喜んでおられるのだろう。人間の喜びは一過性だが、阿弥陀さんは恒常的だ。いつでも、どこでも、誰にでも阿弥陀さんはひかりを我々に浴びせている。だから、人間は喜んだり、あるいは当たり前になってしまって何も感じないときもあるが、それでも大丈夫だ。人間とはそういう生き物だよと教えてくれる。そうやって聞こえてくると、人間の喜びも、当たり前感覚も、そして悲しみも、すべて阿弥陀さんがご覧になられている中で起こっていることだと教えられる。だから仏法など忘れていてもどうということもない。こっちは忘れていても、向こうが忘れないからだ。
それにしても、報恩講の余韻というものはいいものだ。報恩講は一日だが、それを準備するものたちは一日の作業ではない。確かにコロナで、午後からの半日法要にしたので、一日法要に比べれば苦労は少ない。それにしても準備は大変なものだ。さらに、小生は、準備作業もし、読経もし、お話もするという大苦労だ。外にお呼ばれで行くときはお話だけだから、それに集中できるが、自分の寺でやるとなると、そういうわけにはいかない。更に宅配便の受け取りや孫の面倒まで見なくてならないから、なおさら大変だ。報恩講が終了した、翌日にはみんな疲労感(もちろん、アルコールの影響もあるが)を感じながら目覚めることになる。でも、この疲労感がまた堪らないのだ。これも報恩講のご利益だ。
私は、報恩講は「恩に報いる」という意味だから、恩を感じていなければ報いることもできないと話した。聴衆に向かって、阿弥陀さんから、また親鸞聖人から何をいただきましたか?と問いかけた。煎じ詰めれば、仏法を喜んでおられますか?と問うた。そうやって問いかけてみたら、その問いがそのまま自分に襲いかかってきた。自分はどうか?と。そう問われると、自分には何にもないのだ。あるように思っていたのだが、何にもないのだ。そして最後に思いが堕ちてきて至り着いたのだ。私がいただいたものは、「南無阿弥陀仏」ひとつだと。月並みだが、確かなものは「南無阿弥陀仏」だけだった。断っておくが、その「南無阿弥陀仏」はただの「南無阿弥陀仏」ではない。「血の通った南無阿弥陀仏」である。
私はいつも「南無阿弥陀仏」には三つの意味があると語っている。一つには「南無阿弥陀仏は自分の本当の名前」だ。二つ目は「南無阿弥陀仏阿弥陀さんの本当の名前」だ。そして三つ目は「南無阿弥陀仏は私を助ける法則の名前」だ。比喩的に語れば、一つ目は「子の名前」、二つ目は「親の名前」、三つ目は「子を助ける親のはたらき」だ。親鸞聖人も「仏の名号をもって経の体とするなり」(『教行信証』)と言っている。「仏の名号」とは「南無阿弥陀仏」のことで、この「南無阿弥陀仏」が「経の体」、つまりお経の全体、あるいは体系だとおっしゃる。「南無阿弥陀仏」を開けば、そこから「大経」は言うに及ばず、「八万四千巻」と一口に言われる仏教全体の意味が展開するし、それを一言にまとめれば「南無阿弥陀仏」の六字に収まるというのだ。だから、うちの本堂には「般若心経」の額が掲げられている。おそらく真宗寺院でこれが掛けられている寺はないのではなか。真宗は「正信偈」一本槍だから、他のものは不用だ。そうに違いないのだ。しかし、「正信偈」をくぐって「般若心経」を読むと、「般若心経」の中に真宗が展開していることに気付かされる。もっと言えば、真宗とは「視座」のことだから、この「視座」から覗けば、あらゆるものが真宗の意味としていただかれてくるということだ。「いただいたもの勝ち」なのだ。
「南無阿弥陀仏」は常に自分の前にあり、決して自分のものにはならない。決して所有することのできないものであり、つねに自分の前で燦然と輝いているひかりだ。だから、私はその前にいて、「南無阿弥陀仏」という不可知をいただくことができる。これと出会うのは、不可知として出会うのだ。つねに不可知として。だから新鮮だ。自分が「理解した」という思いを常にひっくり返し不可知に戻してくれる。
以前まで、私は聴衆に向かって話していると思っていた。しかし、そうではなく、聴衆のたましいに向かって話しているのだと、今回教えられた。「聴衆に向かって話す」とは、聴衆に理解してもらおうと思って話すという意味だ。そういう構えになると、話を説明しとうとする意識に傾く。確かに、そういう成り行きになることもある。しかし、本質は聴衆に理解してもらおうという意識は、邪心だ。それでは私の姿勢が聴衆に向いてしまう。それでは「南無阿弥陀仏」になっていない。つまり阿弥陀さんに向いていない。法話は一見すると聴衆に向かって話しているように見えて、本質は、阿弥陀さんに向かっての独白である。独白というと正確ではない。信仰告白である。阿弥陀さんに向かっての告白を、側で聞いている人たちがいるという構図だ。それぞれのひとも、みんな阿弥陀さんに正対しておられるだけだ。本質的に、この世を生きているのは〈私一人〉しかないのだから。この〈私一人〉が阿弥陀さんに引っ張られてこの世にやって来て、そして阿弥陀さんとだけ対話するように出来ている。だから、私の話も、親鸞聖人の教えも、どこまでも参考意見程度のことだ。さあ、自分は阿弥陀さんとどう対面しているのか。そのことだけが問題なのだ。
しかし、二年ぶりの対面形式の報恩講は、ちょっとした同窓会のようでもあった。懐かしい顔に出会える喜びは、これもまた人間のひとつの味わいというものではないか。この報恩講の余韻に、もうしばらく浸っていたい。