因位の楽しみ

空耳。こののとこと耳が遠くなり、聞き間違えが多くなった。夕方、孫が「公園で灰皿拾ってきたの」と言うので、私は驚いて「ええっ!灰皿を!」と言ったら、すかさず母親に「灰皿じゃなくて、貝殻だよ」とたしなめられた。確かに、灰皿は拾わないよな、貝殻だよなと内心で自分に言い聞かせた。別の日、朝方、女房から「天気」と言われたので、すかさずスマホの天気予報を見て、「晴れのち曇りだって」と伝えると、「天気じゃなくて、電気よ」と言われた。暗いから電灯のスイッチを入れてという要求だった。これも確かに「デンキ」と「テンキ」は似ている。かつて飲み屋で、女の子に誰が好きなの?と聞いた時「江沢民」と応えるので、政治好きなんだと思った。しかし、よく聞いてみたら、それは「倖田來未」だった。「コウタクミン」と「コウダクミ」は確かにニアミスというか近似値ではないか。ここまでくると、「空耳」が老化の困りごとを通り越して、「老化の楽しみ」になってくる。タモリの出演していたテレビ番組で「空耳アワー」というのをやっていたのを思い出した。洋楽の楽曲の一節が、日本語の「空耳」として聞こえるとまったく違った意味を持ってくる。これも「空耳」を障害ではなく「楽しみ」に変えている。そうなってくると、「老化」も今まで知らなかったことを知ることのできる「楽しみ」になるのかも知れない。果たして親鸞は、「老化」をどのような味に変えていたのだろうか。想像してみると、それは「因位の楽しみ」ではないかと思う。「因位」とは、「すべてを『もう済んだ』と言わせないはたらき」のことだ。だから親鸞は、「自分は確実に浄土に往生できるから安心だ」などと結論づけてはいない。「いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそく」(『歎異抄』(第9条)思い、また「いまだうまれざる安養の浄土はこいしからず」思うと吐露している。こういう思いが起こってくる度に、阿弥陀さんから「ことにあわれみたまうなり」と悲愛を浴びせられていたのだ。これこそが「因位の楽しみ」ではなかろうか。