「おまかせ」というメタファー

「信じる」という言葉は実に宗教的だと思われているが、私はこの頃、あまり好きではなくなった。どうしても「信じる」とか「信ずる」というと、「信じる自分」がまずあって、その自分が対象を信じるというふうな理解になるからだ。これは親鸞が直感した〈真実教〉ではない。信じる対象が頭の中に出来ていたら、それは親鸞の言いたいことではない。親鸞の信仰は「対象なき信仰」だ。「南無阿弥陀仏」の名号で言えば、「南無」だけあって「阿弥陀仏」という対象は必要ない。「南無」は「おまかせする」という意味で、表層の意味は「阿弥陀仏におまかせする」となる。でも深層の意味は「阿弥陀仏」とは「南無させるはたらき」のことだから、「南無」があるだけだ。深層の意味になると、もはや「阿弥陀仏」は「南無」の動詞となり、「阿弥陀仏」という名前は消えてしまう。だから信ずる対象にはならない。「南無」を親鸞は「本願招喚の勅命」と解釈している。意味は「阿弥陀さんの『まかせよ』という呼び声となった絶対命令」だ。この「勅命」というのは天皇の命令という意味で、政治的意味空間の用語だが、これを親鸞は信仰空間の用語として比喩的に用いている。だから「南無」は「おまかせ」に違いないのだが、「おまかせ」してから助けてもらうわけではない。「まかせよ」という絶対命令を受け取ったことが救いなのだ。だから「おまかせ」には対象がない。何に「おまかせ」したのかと問われても、答えはない。それで親鸞も、『教行信証』(行巻)の「六字釈」で「南無阿弥陀仏」全体を解釈する段で、「言阿弥陀仏者」(阿弥陀仏と言うは)を省き、「南無」しか解釈していないのではないか。
「おまかせ」という言葉も厄介だ。これにも説明がいる。人間界では「おまかせ」という言葉があれば、「何におまかせするのか」と問われるが、やはり、「何に」に対する答えはない。また「運を天に任せる」とか、「人事を尽くして天命を待つ」の類似表現にも使われるが、そういう意味でもない。「おまかせ」できるようになってから、「おまかせ」するのではなく、「おまかせ」できないままに「おまかせ」するのが、「南無」だ。阿弥陀さんに「おまかせ」だと言ってみても、そんなものに「おまかせ」できるわけがない。だいたい、自分以外のものを現代人は信じていないのだから、阿弥陀さんなどに「おまかせ」できるわけがない。自分から見て「おまかせ」しても大丈夫だと思うものには「おまかせ」できても、自分の眼鏡に適わなければ無理だ。人間は自分だけに「おまかせ」しているからだ。
だからもし「おまかせ」できたと思っても、それは錯覚で、実は阿弥陀さんを疑っているのだと親鸞は見ている。それで親鸞は「不了仏智のしるしには 如来の諸智を疑惑して 罪福信じ善本を たのめば辺地にとまるなり」と和讃で歌っている。阿弥陀さんの智慧を疑うのは、自分の功利心を信じているからで、いくらそのこころで「おまかせ」しても、それは「おまかせ」になっていないぞと言っている。「おまかせ」できないのには理由があったのだ。和讃には「罪福信」とあるが、それは『歎異抄』の表現で言えば「往生のたすけ・さわり、二様におもうは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて」(第11条)という問題だ。往生するための「たすけ」を「福」と判断し、「さわり」を「罪」と判断する自分の考えを「信」じ、阿弥陀さんを信じてはいないと言う。そうすると、この「自分の考え」を信じないということが本当の「おまかせ」の意味になってくる。
しかし、今まで自分以外のものを信じたことのない人間には、それがどういうことなのか分かりようがない。とにかく、人間は「私」というものがあって、この「私」がすべてを考え実行して生きてきたと思っているから、「私」を信じないなどということはあり得ないと端から思っている。これは「主語的主体」だ。「私が」という主語を中心にして生きている主体のことだ。それが逆転すると、「述語的主体」になる。つまり、「~が私である」となる。「私が生きている」のではなく、「生きているのが私」となる。「私が食べている」のではなく、「食べているのが私」となる。つまりいままで考えてきた「私が」が空白になった状態だ。そしてそのときしている具体的な一つ一つの行為だけがあって、それがやがて「私」という意識の上に降り注がれ集まってきた状態だ。
親鸞の表現で言えば、親鸞以前には人間が主語として使われていた「回向」という言葉を、「回向したまえり」と逆転させたことに関連する。修行者が「回向して」と読んできたものを、親鸞は「回向してくれている」と逆転させた。「回向してくれている」と言ったもんだから、行き掛かり上、仕方なく「何が」と自問して、「如来が」と答えたまでだ。ついでに「何を」と自問して、「衆生の行を」(行巻)と答えた。この「行」とは人間のする「修行」のことではない。鈴木大拙が「行」を達意的に「living」と英訳したようなニュアンスだ。大拙は「行」を「exercise」や「practice」とも訳すが、その場合は「人間」がする「行」の意味で、「如来回向の行」は「living」であり、「大行」は「True Living」と訳している。大拙に、そのように翻訳させたところにはたらいているもの、それが「回向」の実働だ。大拙の英訳を再度、日本語訳すれば、「生活・生・生きていることそのこと・本当の生」などとなろうが、そのように訳してしまったら、「living」と大拙が翻訳した妙味も失せてしまうというものだ。
しかしここまで来ると、「生きていることそのこと」を阿弥陀さんから与えられていると受け取ることが「おまかせ」の本当の意味になるようだ。つまり、親鸞のイメージした「信」は、人間がこれから「さあやるぞ」と思って実践する行為ではなく、「すでにして」目の前に展開している生活の見直しなのだ。それを私は、『底抜け語録』(因速寺出版)で「人間は『さあこれから』と考え 佛は『すでにして』と応える」と書いた。人間は「さあこれから」としか考えられない生き物だ。「さあこれから」で解決できる問題もあるが、それは表層的なことだ。問題は「さあこれから」では解決できない問題だ。今晩にも臨終を迎えるかも知れないのが「生」の厳しさだ。そんな時に「さあこれから」では間に合わない。その土壇場で阿弥陀さんは「すでにして」と待ち構えていて下さる。この「すでにして」という時の、「すでにして」はどこまでも遡れる。親鸞は「弥陀成仏のこのかたは」(『浄土和讃』)まで遡った。自己がいまここに存在するための何十億年という「いのちの背景」をイメージした表現だ。
それを親鸞は「本願成就」という言葉に見いだした。因位の「本願」は、この世に一人でも苦悩するものがいたら私は仏には成らないと誓っている。だから自分が仏に成るために本願を起こし、あらゆる苦悩の存在を救おうとはたらいている。ここまでは理解できるが、それが「本願成就」から起こっているというのが分からない。「本願成就」とは、阿弥陀さんの誓いが成就して、この世に苦しむ存在がすべて救われてしまい、阿弥陀さんが「仏」に成った状態だ。だから「本願」が「成就」してしまえば、もはや「救われるべき存在」(衆生)も、「救うべき存在」(阿弥陀さん)もなくなってしまう。苦しむ存在がいなければ、阿弥陀さんが救おうとする必然性もなくなるのだ。これが「本願成就」だと言うのはどういう意味だろうか。その事情を考えてみると、「本願」だけでは、阿弥陀さんがすべての存在を救いたいという願いがあるだけで、願いが成就するのは、ずっと先の未来のことになってしまう。つまり本当にその願いが実現するのかどうかは分からないから、「不完全な願」という謗りを受けかねない。それを防ぐために、「本願」は未完成なものでなく、「完全円満した本願」だと言いたいのだろう。因位の「本願」は「本願成就」した「完全円満した本願」から起こされてくると言うわけだ。それを曽我量深は「法蔵菩薩は阿弥陀仏に成り上がる菩薩ではなく、仏から成り下がられた菩薩である」というような言葉で表現された。仏教一般で言う「菩薩」は願を発し、その願が成就した段階で仏に成ると考えられている。だからこれは「成り上がろうとする菩薩」だ。しかし、曽我量深が言う「菩薩」は、もうすでに仏に成ってしまったのだが、その仏という段階から、あえて「成り下がられた菩薩」だと言うのだ。「本願成就」してしまったのだが、そこからあえて退一歩して「未完の本願」に成られたと。なぜ退一歩したかと言えば、それは他ならぬあなたを救うためなのだという思いがあるからだ。それが「あえて」という言葉に、感動的に込められている。
親鸞が「信」という言葉で語りたかったことは、「本願成就」から始まる仏道だ。それは「すでにして本願が成就している現実」である。既に済んでしまった現実を前にして、私は「さあこれから」と本願の淵源を尋ねていく、それが「生きる」ことの内容になってくる。「既に済んでしまった現実」とは、私が救われてしまって、もう何も付け加えることのない現実だ。阿弥陀さんが本願を起こされたのは、「さあこれから皆を救うぞ」と立ち上がったわけではない。「本願成就」とは、この世に救われていないものは一人もいないということだからだ。それが、本願が実働している「living」の世界だ。そうなると「本願」は遊んでいるのではないか。ライオンが鹿を捕食するとき、一度確保した獲物を、あえて逃がしてもてあそぶようなものだと曇鸞は言っている。まあ正確には「遊戯」と書かれているのだが、「遊び」のことだ。「遊び」とはそれを「すること」と「したいこと」が一致している行為のことだ。阿弥陀さんが私を救おうとすることは、それが願いであると同時に、願いを実現している姿だという意味だ。こうなると私が見渡すことのできる世界は、もうすでに「本願成就」の世界だった。「本願成就」の世界にありながら、自分だけが救われていないと思っているのだった。こうなると阿弥陀さんは私の感じる「四苦八苦」も救いの手立てにされるようだ。もし「救い」が、「四苦八苦」の断滅だとすれば、救いの手立てがなくなってしまう。「四苦八苦」を私と一心同体になって感じて下さることによって、阿弥陀さんは阿弥陀さん自身を私に知らせようとしているようだ。それでも私は、そんな阿弥陀さんに「おまかせ」することができないでいる。「できない」と言っても、それは私に問題があるわけではない。「おまかせ」できないことの責任は私にあるわけではない。私には一つも責任はないのだが、「おまかせ」できない現実があるだけ。この「おまかせ」できないというのは阿弥陀さんから与えられたアンカーのようなものだ。この確かな足場から一歩も動いてはダメだ。この「おまかせ」できないという確かな足場があることによって、「まかせよ」という絶対命令が発動されるからだ。「まかせよ」は「おまかせ」できない場所以外では発動しない。だから相変わらず「おまかせ」できないでいる。この現実に対して、阿弥陀さんは四六時中、「まかせよ」と命令して下さる。だから自分は阿弥陀さんなどを信じなくてよいのだ。信じようとする前に、すでに阿弥陀さんは私を救っていたのだ。救われている中にあって、初めて救われていない自分が発見されるのだ。
阿弥陀さんの本願が展開する世界にいながら、救われていないと思っている。それで曇鸞は「碍は衆生に属す、ひかりの碍にあらざるなり」(『浄土論註』)と言ったのだ。ひかりは全世界、全宇宙に広がっているのに、窓を閉めて閉じこもり、「暗い暗い」と歎いているのがお前だと。そう言われると、また自分の内面を探り出し、その暗さを作っているのは自分なのかと閉鎖的になる。それでも大丈夫だ。必ず、自分の内面を探ろうとする眼を信じるなと阿弥陀さんは命じて下さるから。「おまえには決して『結論』を握らせないぞ」、とはたらいて下さるから。