子どもは菩薩

今日の法事にも幼児が参列していた。参列といってもお母さんに抱かれて座っていただけだが、読経が始まるとすぐにぐずりだし、ワーワーと騒ぎ始めた。私は子どもが騒ぎ出すと、「そら、本当のお経が始まったぞ」と内心で思っている。当然、私の読経の声とかぶるってくる。それを不躾だと思って制止する親御さんもおられる。その時には、その子に申し訳ないなと、これも内心で詫びている。子どもは大人に連れられ、大人の事情に付き合わされているのだから、いい迷惑だ。当然、異議申し立てで騒ぎ出すのは致し方ない。今日の家族は、子どもを制止することもなく、いわば「野放し状態」にしていたようだ。私の読経の声と、子どもの騒ぐ声とがコラボレーションする。このコラボレーションが私は好きだ。もしコラボレーションせずに、私の声だけが響いていたとしても、おそらく大人は意味不明だろう。子どもの騒ぐ声も意味不明なら私の声も意味不明で、それで初めて「本当のお経」になるように思う。読経後、門徒の家族に、子どもが騒いでくれて有り難かったと話した。この子も、後十年もしたら、こんな声で騒ぐこともなくなる。これはいまだけしか見ることのできない貴重な場面だ。その場面にいま出会えていることに感動する。その子にしても、自分ではどうしてよいか分からないに違いない。ただこの退屈な場所に置かれて、そのことに違和感を感じて、ギャーギャーとぐずっているだけなのだから。つまり、その子が騒いでいるのは、そうせざるを得なくてそうしているだけなのだ。これを「宿業因縁の現実」と言う。まあ大人も「法事」という、そうせざるを得ないことをしているのだから、本質はその子と同じだ。翻って、私はと言えば、私も同じように、そうせざるを得ない状況に対して、そうしているだけなのだから、これまた同じことだ。そこで、その子とイーブンになる。
お経には、「菩薩」が「童子」として表現されている。「雪山童子」とか「善財童子」とか。なぜ「菩薩」を「童子」と言うかといえば、それは好奇心のかたまりだからだ。子どもは、じっとしていることができないほどに、好奇心のかたまりだ。だから椅子に黙って座っていることなどできない。常に好奇心は動きっぱなしだから、その好奇心に振り回されている。自分でも、この好奇心にあらがうことができないで、好奇心のおおせのままに従っている。まあ子どもも本当は何がしたいのか分からないのだ。分からないから、これでもないあれでもないと好奇心の言われるままになっている。大人もそうやって「大人」になってきたのだが、そのことを忘れてしまっている。大人も初めは「子ども」だったから、好奇心だらけだったのだ。しかし、少しずつ「当たり前」という幻想を手に入れることで、逆に好奇心を売り渡してきた。だから法事のときも、意味不明の読経を聞いてもじっと耐えていることができる。それを大人は「社会性」という名前で呼び、大人たちは子どもよりも上位の存在だと錯覚している。ただ大人も、こころの奥を覗いてみれば、こんな退屈なことはしていたくないのではないか。でも、こういう場面では「大人」はこういうふうに振る舞わなければならないと思い込み、それに従っているだけだ。
まあ「大人」はじっとすることのできる生き物でもある。だからメディテーションとか座禅という行為ができる。これは「止める」という類型だが、「子ども」は「動く」という類型で対称的だ。「大人」の「止める」というのも、敢えて「止める」ことで「動く」ものを感じ取ろうとする行為だ。仏教の「止観」は「止めて観る」ということだ。これもインド古代語の「シャマタ(止)・ビバシャナ(観)」の翻訳語だ。深層のこころの動きは、こっちが動いていては観察できないから、一次的に身体を止めてこころの動きを観察しようという目論見だ。「子ども」はしょっちゅう動きっぱなしだから、かえって「動いている」ということは見えない。動いているのが常態だから。「遊び」とは遊ぶこと自身が目的で、手段ではない。つまり、「したいこと」と「すること」が一致しているのが「遊び」だ。これがまさに「菩薩」の姿である。「大人」の行為はほとんどが、「手段」になっているから、阿弥陀さんから観れば、「大人」より「子ども」のほうがずっと私に近いと思っておられるのではないか。だから「子ども」は純粋だ。「大人」は利害損得という眼でしか動けないから汚れている。そう思うと「大人」の私は「子ども」に対して申し訳ないなと感じてしまう。「菩薩」を目の前にしても、「大人」の汚れた眼で見てしまうから、「子ども」が騒いでいると、「困ったもんです」などと否定的な物言いをする。本当は「子ども」のほうがずっと阿弥陀さんに近いのだ。
まあこうやって「子ども」が「菩薩」だったのだと教えられるのも法事の御利益なのだ。むしろこういうふうに感じさせてもらうことが法事の目的なのではないか。「子ども」が騒いでいると「大人」は「うるさいな」とか「黙らせろ」とか思ってしまうのだが、その思いが阿弥陀さんに摘発されて、「子どもの姿に菩薩を見よい!」と叱られるのだ。もっと言えば、「あなたが子どもだったことを思い出し、子どものこころを掘り起こせ」と迫ってくるようだ。「大人」も自分は「大人」だと思っているのだが、本当は「子ども」の皮を被った「大人」に過ぎないと、目覚まされる。よく「子ども」はうるさいから法事に連れてこないという「大人」がいるが、それはよろしくない。騒ごうが喚こうが、この法事の空間で一緒の時を過ごすのが大切なことだ。仏前とは年齢や性別などを無関係にしてしまう場だ。それで出来るだけお子さんも連れてきて欲しい。彼らがこの本堂という異空間でお経を聞き、お香の香りを嗅ぎ、大人と一緒にこの空間を経験することで、彼らの無意識が養育されるのだから。「仏法は毛穴から沁みる」と言うのは、そういう意味だろう。仏法は人間の意識など相手にしていないのだ。ひたすら人間の深層にある無意識を相手にしてきたのだから。
法事で読まれるお経にもちゃんと意味はあるのだが、法事では読経の響きに身をまかせることのほうが大事だと思う。意味不明な漢字の羅列をただ大声で読んでいくのだが、意味不明と聞こえることによって意識は自分の内面へと深く降りていくことができる。逆に意味が分かってしまうと、意味にとらわれて内面へと降りていくことができない。私も意味不明な読経に意味があるのかと思っていた時期があったが、いまは意味不明だからよいのだと思っている。意味不明だから、こころが深層へと降りていくことができるのだ。法事の席で座っている数十分間にあなたは何を思い、何を感じたか。それはあなたがお寺に行ったら、こんなことを考えようとあらかじめ意図していたことではない。本堂に座っているときに、おのずと感じたり思ったりしたことだ。私はそれを、「阿弥陀さんが見せて下さった、あなたのこころの世界です」と話したりする。これこそ「他力」の具体的な出現だ。そもそも「考える」ということすら「他力」以外では起こらない。現代人は「考える」ことくらいは自分の意志で自由に考えることができると思っている。しかし阿弥陀さんはそれを「錯覚」だと言う。「考える」ことが「他力」だから、一つのことをズッと考え続けることもできない。試しにテーマをひとつに絞って考えてみたらよい。そのことを考えているうちに、ついつい他のことに頭が行ってしまうことを経験するだろう。私も大学の卒業論文を書いているときに、それを経験した。テーマに沿って考えなければならないのだが、ついつい他のことを考えてしまっては、ハッと我に返らされた。事実は「他力」で行為しているのだが、それを「自分の意志」だと思わされるのも、実は「他力」のなせるワザなのだ。「思う」ということも、「思う」という運動があるだけで、その主体は誰だと問うても、本当は「誰」ということでもないのだろう。だから仏教は「無我」とか「縁起」などと言い当てようとしてきのだ。
だから、私は法事の読経が終わって、皆さんのほうに向き直りに、「この数十分間、何を思っていましたか?」と問うことがある。そうすると、ニヤニヤするひとがいる。このニヤニヤは、例えば母親の法事だとすれば、ずっと故人のことを思わなければならないのに、違ったことを思っていたから、恥ずかしいという思いの現れだ。それもそのひとが不謹慎だと感じていることを思っていたのだ。そうでなければニヤニヤするはずはない。身はこの場にあってもこころはあちこちに飛んでいく。過去のことを思ったり、これからの予定を思ったり、仕事のことを思ったり、遊びのことを思ったり、こころは自分の思い通りには動かない。それでも「優等生」の答えをするひともある。私の問いに、すっと「母のことを思っていました」と答えられた。私も、その通りだと称賛したが、続けて私は「それだけでしたか?」と問うた。すると、やはりニヤニヤが出てきた。このニヤニヤが、また法事の御利益なのだ。ニヤニヤには「恥ずかしながら」という慚愧の現れだ。親鸞聖人の「恥ずべし、傷むべし」という慚愧の系譜が、ここに表れている。これが阿弥陀さんを前にしたときに人間が取ることのできる、正しい姿勢である。この「恥ずかしながら」が生まれてきて、ようやく亡くなった仏さんとイーブンの関係に立つことができる。
そして我の立ち位置に返されて、「汝が意(こころ)においては云何(いかん)」(於汝意云何・『阿弥陀経』)と問い返される。それもこれも、いまここで感じ、思ったことは〈一人一世界〉であなたが感じた奇蹟なのだと知らされる。ここで何が起こっていたのか。それは阿弥陀さんのひとりばたらきの劇場が生々しく展開していたのだ。それに対して、私はただ「ああ」と言葉を失うしかない。お友達の親鸞も「噫(ああ)」(『教行信証』総序)と唸っていたではないか。