自利利他円満

一歳になった孫に、「諸仏称名」の意味を学ぶ。「やりたいほうだい」という名前のオモチャがある。なぜか知らないが、子どもがやりたがる行為がある。例えばコンセントにいろんなものを突っ込む行為。ピンポンと鳴る玄関のチャイムを押したがる行為。玄関の鍵穴に鍵を突っ込む行為。ティッシュ箱から無限にティッシュを引っ張り出す行為。それらをコンパクトに作り上げて、子どもの欲求を叶えるオモチャがある。そのオモチャで、孫はいままで鍵穴に鍵を突っ込むことはできなかった。ところが二三日前から、それが出来るようになった。まだまだ不器用だから、なかなか鍵が鍵穴に入らない。それでも彼は諦めずに何とか穴に入れようとしてる。見ているこっちがヤキモキしてイライラするくらいだ。ところが、鍵が鍵穴に入った瞬間、彼は我々のほうを見て満面の笑みを湛え、喜び余って両手を叩いている。我々のほうを見渡して、「どうよ!」というふうに。孫はしばらくすると、再び鍵を鍵穴から抜き、その穴に突っ込んだ。上手くいくと、同じように我々を見渡しては喜びを強要した。彼はこの行為を何回か繰り返した。
私は彼は阿弥陀さんだなと思った。阿弥陀さんは、自分の名前を「諸仏」たちに、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と讃嘆して褒めてもらいたいと願っている。褒めてもらわないと、自分は「本当の自分」になれないのだと。だから自分だけで喜ぶ「自己満足」だけでは本当の満足にならないのだと言う。あらゆる「諸仏」にやんややんや、あっぱれと褒めてもらわないと満足しないと書かれている。これは人間の「喜び」というものの本質を表しているのではなかろうか。仏教的に言えば、「喜び」は「自利(個人的喜び)」だけでは本当の「喜び」にはならないということだ。「自利」は必ず「利他(他者の喜び)」にならなければ本当の「喜び」にはならないということではないか。「自利利他円満」というと高邁な菩薩の課題のように思ってしまうが、本当は人間の「喜び」の本質を語っているのではないか。孫の行為の中に、人類の普遍的な「喜び」の構造が表れていたとは驚きだ。
阿弥陀さんが、「私の名前を称えて下さい」と願っているのは、名前だけを呼んでということではない。その前に、私の名前の意味をちゃんと受け取って欲しいという願いがある。阿弥陀さんの名前の意味は、「あなたの本当の名前は阿弥陀だから、阿弥陀という名前だと自覚してという願い」だ。ちょっとややこしい言い方になってしまった。自分には「姓名」が付けられている。でもそれは仮の名前であり、本当の名前は「阿弥陀」なのだ。だから今までは向こうにいる阿弥陀さんの名前だと思って、「南無阿弥陀仏」と称えていたが、本当は「南無阿弥陀仏が自分自身の名前だったのか」とひっくり返したいのだ。このひっくり返しを引き起こそうと、阿弥陀さんは願っている。
南無阿弥陀仏の表面的な意味は、「私は阿弥陀仏に南無します」という信仰告白だ。これならば日本語として正しく成立する。ところが深層の意味は、その「南無します」というこころそのものが阿弥陀さんのはたらきだから、阿弥陀さんは「南無」に解消されしまう。つまり、今まで「私は阿弥陀仏に南無します」と思っていたときは、「南無」するための対象が頭の中にイメージされていた。しかし、そのイメージが解体されてしまった。「南無」は「おまかせします」という意味だが、「おまかせ」するための対象がなくなってしまった。対象がイメージされているうちは、まだ本当の「おまかせ」になっていない。何かに「おまかせ」して助けてもらうことが「南無」の意味ではない。阿弥陀さんは、「おまかせ」するための対象ではなく、「おまかせ」するはたらきそのものだ。だから「おまかせ」して助けてもらうのではなく、「おまかせ」が成り立ったことがお助けということになる。「お助け」を依頼した「おまかせ」は利害損得のこころから起こった「おまかせ」だ。つまり、助けてもらうために「おまかせ」するのだから、もし助けてくれなければ、「おまかせ」しないという毒が混じっている。その「おまかせ」が私のこころではなく、阿弥陀さんのはたらきになるのが本当の「おまかせ」だ。私はこれを「対象なき信仰」と呼んだことがある。仮に「おまかせ」するための対象を「木造の仏像」として安置する。それは、向こうに立っている「仏像」が、本当は自己自身の内部に「南無」として成り立つための信仰装置なのだ。それを阿弥陀さんは望んでいる。私は本堂に立ち姿で飾られている阿弥陀さんを見て、こんなふうに思う。阿弥陀さんの立っている場所は、蓮の花の上だ。蓮は泥田の中でしか咲けない。泥田は私たちの煩悩を象徴している。普段はこの泥田に足を取られ、ズブズブと泥田に埋まってしまいそうだ。そこにすっくと立っておられる阿弥陀さんを拝見する。するとこの阿弥陀さんの立ち姿が、足を取られそうな泥田の上に、すっくと立ち上がって歩けるようになりなさいと励まして下さるように感じる。本堂に立っておられる阿弥陀さんは、私たちを助けるために浄土からこの世に現れたお姿だと言われるが、そればかりではない。あの立ち姿は、「自分自身」の本当の姿を象徴されているのではないか。
「南無」となった阿弥陀さんを、「本当の自分」と言ってみたい。「阿弥陀」を漢訳すれば「無・量」であり、これは「非・限定」である。つまり人間の知恵では量ることが不可能という意味だ。これは阿弥陀さんのことを語っているように見えて、本当は「自己自身」のことを教えているのだ。それは「自分自身」が「無量なるもの」だという意味ではない。「自分自身」を自分の知恵で、本当に知ることはできないという意味だ。そういう意味に解すれば、「阿弥陀」は「自己自身」という意味になる。いままで、「自己自身」と思って、どこかに限界を見いだしていた眼が解体されいく。その限界も自分の眼で区切って、「ここまでが自分」、「ここからが自分以外」としていた境界が解体される。眼は脳が世界を「差異化」するための器官だが、その「差異化」は、本来的には「差異化できないこと」を教えるためのものだったということだろう。そう思うと、やはりこの世は私一人を教育する阿弥陀さんの学校なのだと思わされる。一歳の孫が、「喜び」とは「自利利他円満することだ」と教えてくれたように、どこまでも留まることのない教育装置だ。この装置は人間に結論を与えないので、ここに書いたことがこれでお終いということではない。阿弥陀さんの教育は常に「それで?」と問われる。臨終の一念に至るまで、「それで?」「それから?」と問い返される。これが信仰の防腐剤なのだ。