寺の意味

あるお寺の落慶法要に呼ばれてお話をした。真新しい本堂がまぶしかった。本堂内部の細工や道具は、すべて「荘厳」と呼ばれる。さらにそれを包んで建っている本堂も「荘厳」である。「荘厳」とは、形を超えた阿弥陀さんの世界を感じ取れるように具体的に配置した事物のことだ。この世の素材を使いながら、この世を超えた世界を暗示している。私は「お寺は何のためにあるのか」というテーマでお話をした。これはそのお寺ばかりでなく、私の寺を含めたすべての「真宗寺院」のテーマである。「真宗寺院」の伽藍(建築物)はすべて真宗以前の寺院形式からの借り物である。それらをそのまま使ったり、アレンジしたりして「真宗」独自の「荘厳」にしてきた。だからまだ発展途上の「荘厳」である。一応、教団はこれが「基本」だと決めているのだが、阿弥陀さんから見れば、それも「決定版」ではなく、「発展途上」と言われるに違いない。根本的なことを言えば、寺院建築ばかりでなく、この世のあらゆる事物が「荘厳」なのだ。つまり、阿弥陀さんを暗示しているお飾りなのだ。それは事物ばかりでなく、あらゆる生物も含めての「荘厳」だ。諸行無常と諸法無我という法則を教えて下さる「荘厳」である。それでもやはり生き物のほうが「荘厳」の説得力を発揮する。今朝も、尾長(鳥)が枝に止まって餌を食べていた。あの尾長の色合いは何とも言えない「荘厳」だ。紺色からコバルトブルーのようにグラデーションがかかっている。あの色合いは誰かが色づけしたものではない。人間の力を超えている。超えていると教えられると、そこから「既知の世界」が崩壊し始める。オセロが一気に黒から白にひっくり返されるように。これが「荘厳」のはたらきだ。
しかし、本堂を建築するということは並大抵のことではない。それこそ財力も人力も必要だ。昔から、本堂を再建すると住職の寿命が縮むと言われるのも分かる気がする。落慶まで漕ぎ着けた人々の喜びはひとしをだろう。落慶はその日までの準備が九割で、当日はその余りの力で流されていくとも言われる。私が駆けつけた時も、その流れの中にあったように感じた。何回「おめでとう」と言っても、また「大変なご苦労でした」と言っても、それは空砲みたいなものだ。いま出来上がったすべての「荘厳」に対して、ただ唖然として頭を垂れる以外にはなかった。ところが、この「希有なる荘厳」から、今度は問い返されるのが〈真宗〉である。この「荘厳」は何のためにあるのか、と。その答えとしては「法事」「葬式」「法要」などが考えられる。しかし、「それだけか?」と問い返される。「聞法」のために寺はあるという答えが正解だと言われそうだが、それでは「何のために聞法するのか?」と更に問い返される。
ちょっと余談だが、真宗以外のお寺は自分が動かなくてよいから楽だが、〈真宗〉は自分が問われる運動だから、一番の難行だ。真宗以外のお寺は、亡くなられた方が問題なのだ。つまり故人の冥福を祈るのだから、故人が安らかになっているかどうかが問題だ。冥福を祈っている自分は、問われることはない。しかし、〈真宗〉は貴方は故人が安らかになっていると思うのかどうかと問うてくる。貴方(生者)は、故人を無前提に「不幸」と決めつけているのだ。本当に「不幸」であるのかを確かめたことが無いのに。なぜなら自分が死んだことがないのに、「死」を「不幸」と決めつける根拠は何か。そこには「生は幸福」、「死は不幸」とい決めつけている煩悩(貪欲)が介在してるのだ。そうやっていままで考えたこともない「常識」が問い返されてくる運動が〈真宗〉である。だから〈真宗〉は厄介なのだ。人間は自分がいままで守り固めてきた「常識」を問い返されることが一番苦手だから。その「常識」を問い返し、解体させようというのだから、〈真宗〉が好まれるはずはない。見事に立ち上がった「希有なる荘厳」の背後には、そんな大いなる仕掛けが潜んでいる。そこまで見通せてしまったら、この落慶を本当にこころから喜べただろうか。それでもなお喜ぶことができるならば、それそこ「希有なること」だろう。
以前、私は「お寺は信心の教習所」と言ったこともある。自動車の教習所に通ったことのあるひとは分かっているが、教習所にはS字カーブや坂道やクランク型の道などがある。あれは「世間」には実在しないような道を敢えて作ってある。それでこの仮想の道を走ることができるようになれば、「世間」の道、つまり一般道を走ることができると見なされる。お寺もこれに似ている。「世間」には存在しないような仮想空間、つまり「荘厳」で聞法空間を作り、そこで信心の道理を学ぶ。それは「世間」つまり、日常生活に帰っても持続されることを目指している。むしろ、日常生活で通用しないようなものは嘘だ。自動車の運転もそうだ。なにも教習所の中を走るために運転を学ぶのではない。「世間」、つまり一般道を走るために学ぶのだ。だから日常生活で通用するために、お寺で「信心の道理」を学ぶのだ。間違っていけないのは、「信心」を学ぶのではない。「信心の道理」を学ぶのだ。「信心」は学ぶことができない。これは一人一人が目覚めていく世界であって、決してひとから聞くことはできない。学べるのは、その「信心」が表現された「信心の道理」だ。つまり言葉だ。言葉は必ず玉石混交だから、玉を見いだし石を捨てて聞く練習だ。それが「信心の道理」を学ぶことだ。よく「お寺で話を聞いているともっともだと分かったように思うんですが、お寺の門を出ると、いったい何を聞いたのか分からなくなるんです」という感想を聞くことがある。これは教習所止まりの信心になってしまう。「世間」を走れる信心を究極の目的として寺はあるのだろう。〈真宗〉では「聞いて成るのではない。成っていることを聞け」とも言われる。法話を聞いて、煩悩で自分は苦しんでいるのだと知らされた。理不尽なことに出会えば腹が立つが、それを止めることができない。だから自分はどうしようもない人間だと知らされたとしよう。それは法話を聞いて「どうしようもない人間」から「どうにか成れる」と思って聞く聞き方だ。「本当はそんなことではダメだ、もっと冷静で思慮深い自分であらねば」とこころの底では思っているのだ。それは「聞いて成る」という聞き方だ。〈真宗〉が「成っていることを聞け」と言うのは、縁が催せば、どのようなことも思い、どんな行為をするか分からない人間だったということを聞くのだ。違った言い方をすれば、〈凡夫の本来性〉を聞くのだ。つまり今まで自分を「どうしようもない人間」だと見下げていた眼の向きが変わることだ。この「どうしようもない人間」だという見え方が、人間の眼ではなく阿弥陀さんの眼から見いだされた姿に変わるのだ。そうなると相変わらず「どうしようもない人間」なのだが、この「どうしようのなさ」が自分を教えて下さる「荘厳」に変わる。さらにこの「どうしようのなさ」が日常生活には常に顔を表しているのだから、すべての生活が自分を教えて下さる「荘厳」となってくる。
私はお話の中で、法要で親鸞聖人の「正信偈」をお勤めしていて欠伸が出たというお話をした。厳粛な法要なのだから本当は欠伸などもってのほかのことだ。だが人間は慣れてくると緊張感も減退し、必ず欠伸が出る。「人間の眼」であれば、これは受け入れられない不謹慎な行為だ。だから、もし欠伸が出たとしても、そんなことは公言すべきではない。黙っておけば周りのひとには気付かれないのだから。ところが阿弥陀さんから見つめられたら、その不謹慎な行為を包み隠すことができなくなった。欠伸が出るという行為も大切な「荘厳」ではないかとひっくり返されたのだ。私は「一切衆生の典型」だから、「一切衆生」が欠伸の出る必然性に入れば、欠伸が自然にあらわれる。これを「私一人だけの特殊な体験」として秘匿することができない。「一切衆生」に普遍的に起こる現象が、「特殊な私一人」の上に起こって下さったという奇蹟だ。この奇蹟を公表しないわけにはいかなかった。また公表せよと迫ってくるのも阿弥陀さんだ。これも阿弥陀さんが「そうせよ」と迫ってくる回向だから仕方がない。私個人の上に展開しているすべてのことは、普遍的な法性の法則だった。ほんの些細なこころの動きや感情の動きも、丸ごと法性の展開だ。だから法の道理を個人に秘匿するような罪を犯してはならないと阿弥陀さんは迫ってくる。欠伸は個人が秘匿してはならない徹底した法性の発露だ。阿弥陀さんから見れば、「個人」とか「私人」という差別はないのだ。あらゆることがすべて阿弥陀さんの法性の展開だ。それを仏教では「無我」と述べただけだ。まあこれを私は「赤裸々性」とも呼んでいる。露悪趣味と勘違いされることもあるが、どこが違うかと言えば「赤裸々性」は、必ず「恥ずかしながら」という前置きがついているところだ。親鸞も「恥ずべし、傷むべし」(『教行信証』信巻)と言っている。これがなくなったら露悪趣味だ。
それはともかく真宗寺院は、「この世」のあらゆることに「?」と疑問を懐かせるものだ。だから「この世」からは嫌われる。「この世」は結論や結果を欲しがる世界だから。私が暮らしている寺も、果たして〈ほんとう〉の仕事は何なのかよく分からない。世間的には、法事や葬儀や聞法会をする場所だと結論づけられている。しかし、〈ほんとう〉のところはそればかりではない。人間が結論づけようとする指の間から存在意義は漏れてしまう。だから、相変わらず「分からない」のだ。でもこの「分からない」というところが醍醐味なのだ。「分からない」ということは〈零度〉でいることが出来る場所だから。だから何をしていても、その足下に「分からない」法性が広がっていて、それに接していられる。それで「これが寺の存在意義だ」と結論を固く握らなくて済む。何をしていても、それが法性に適っているかどうか「分からない」からこそ自由に行為できるのだ。「阿弥陀」は「分からない」という意味だから。これを本尊としていることが宝なのだ。