一本目の矢は、あいつが目の前にいて酷いことを言われて腹が立った。二本目の矢は、それから時間が経って本人が目の前にいないのに、あいつが憎らしいと思うことだ。二本目の矢は「現実」ではない、「自己内世界」の中で腹を立てている。この二本目の矢を受けないというのが、〈真宗〉の利益だ。「赤いリンゴ」と言う言葉を聞けば、みんな頭の中に「赤いリンゴ」を思い浮かべる。でもそれは「現実」にはない。いま目の前に「赤いリンゴ」があって、それを見ながらならば「現実」だが、目の前になくても私たちはそれを思い浮かべることができる。そして、その「リンゴ」は間違いなく存在していると思っている。しかし、それも「自己内世界」内部の仮想現実である。感情の煩悩は「現実」に即してしか起こらない。だから瞬間的だ。車を運転中に割り込みをされたら瞬時に腹が立つ。でもテレビの料理番組を眺めているときには、怒りの感情は起こらない。怒りの感情は、表層的な煩悩だからかわいらしいもので、単純である。まあ私たちの身体は「煩悩発生器」なので、そういう関係に入れば瞬時に発動する。しかし、もう少し深層にある煩悩はなかなか自分では見つけにくい。単純に言えばそれは「思い」だが、この「思い」を「現実」だと勘違いしている。このように考えてみると、私たちは、果たして「現実」に出会っているのだろうかと疑問になる。「現実だという思い」を「現実」だと思っていて、本当の「現実」などではないのではないか。
いま長年懸案だった水路敷の国有地部分(26㎡)を払い下げようとしている。何十年も前に、水路などなくなり、その上にブロック塀が建ち墓地となっている。お墓の一部が国有地部分にも食い込んでいるらしい。それを測量してようやく買い取ることになった。これが「現実」だろうか。払い下げなくても別段、困ることはないのだが、法律的には「違法使用」になっているらしい。単純に、その土地部分のみの代金を支払えばよいのかと思っていたが、そうではなく、何十年間無断使用していた使用料も払えという。これも法律的には正しいらしい。国としては、まったく使い道のない土地なのだから、ただ放っておいた土地に違いない。しかしそれを買い取ろうと申し出たら百万円以上を支払えという、これも法律が決めたことなのだろうか。
とてもこれが「現実」とは思えない。これは人間が人間特有の恣意によって作り上げた「仮想現実」ではないのか。本当は大地に値段など付けることはできないのだ。そもそも大地は人間が所有するというようなものではない。大地はそこに生きている微生物や虫や植物などのものであって、人間のものではない。
私にはこの世界が二重になっているように感じられる。本当の「現実」と人間の「仮想現実」と。そんなときふと、まど・みちおさんの「どうしていつも」が思い出された。「太陽 月 星 そして 雨 風 虹 やまびこ ああ 一ばん ふるいものばかりが どうして いつも こんなに 一ばん あたらしいのだろう」。
朝日が昇って来るとき、東の空が明るみにかわり、雲がオレンジ色や灰色に変化する。まどさんは、それをみて「ああ」と感嘆のため息を漏らした。私もネパールでヒマラヤの暁光に出会ったとき感動のあまり言葉を失った。「現実」はただ「現実」の道理に従って惑星の運行が起こっているだけだ。しかし、それに出会ったとき人間には感嘆という感情が沸き起こる。「現実」は何十億年という惑星の運行なのだが、それに人間は〈いま〉出会うのだ。それも束の間で、時間が経ってしまえば朝日の素晴らしい光景も「仮想現実」に飲み込まれていく。「あの朝日は美しかったなあ」と思い出すことはできるが、それは「現実」ではない。「現実」とは一瞬の出来事なのだ。「仮想現実」を打ち破るようにして開かれる一瞬の暁光だ。まどさんは「一ばん ふるいものばかりが」と言うのだが、これは「何十億年」という時間のイメージだろうし、私に置き直せば「弥陀成仏のこのかたは」というイメージになる。この「何十億年」に〈いま〉出会うとき、「いつも こんなに 一ばん あたらしいのだろう」と展開する。この新しさに出会った〈いま〉は単なる〈いま〉ではなく、「ああ」という感嘆と同義語だろう。人間は「言葉」を奪われるような「感嘆」を「いつも」体験したい生き物なのだろう。そう思うと、「仮想現実」という幻想も、なかなか捨てたものでもないなと感じる。幻想があるから、それが破られた時の「ああ」がいただけるのだから。この「ああ」が「救い」と呼ばれてきたものではないか。そうだ親鸞も「噫弘誓強縁多生叵値」(ああ弘誓の強縁、多生にも値いがたく)と「ああ」と感嘆を述べていた。「噫」は「嘆息の声。驚嘆の声」と辞書にある。この「ああ」は救われがたい自分への嘆息であると同時に、救われがたさに気付かされた感嘆でもある。「何十億年」という時間が顔を表すのは、「救われがたき〈いま〉」だった。「仮想現実」を「現実」だと勘違いしてきたことの罪を自覚させられた〈いま〉だった。