分からせない

あらためて「われらが、身の罪悪のふかきほどをもしらず、如来の御恩のたかきことをもしらずしてまよえるを、おもいしらせんがためにてそうらいけり。」という歎異抄(後序)の御言葉が回向されてきた。自分の日常は、「これではダメだ」と思ったり、「これでよい」と思ったり、煩悩は「高峰岳山」(正像末和讃)の如しだ。高山を上ったり下ったりの毎日だ。そんなとき、ふと天を見上げると、この歎異抄の御言葉が降ってきた。「身の罪悪のふかきほど」とは、自分で自分を振り返って罪深いと思ったり思わなかったりということだ。それで分かったことにして済ませていた。それは13条の「われらが、こころのよきをばよしとおもい、あしきことをばあしとおもい」という言葉が示すように、「自己内世界」で完結してしまっていることを教えている。つまり自分のことをあれこれと考えても、また如来のことをあれこれ考えても、それはすべて「自己内世界」のことだと。だからまったく如来とは絶縁している。
親鸞は『教行信証』でもそう言っている。要約して言えば、阿弥陀さんが何で愚かな衆生のために本願を起こされたのかという問いを出し、それに答えて、「仏意測り難し」と言い切っている。つまり阿弥陀さんのこころなど人間に推し量ることはできないのだと。そう言い切って「沈黙」した。実際の文章は続いているのだが、現実にはそこに「沈黙」があったはずだ。また「沈黙」がなければ、次の言葉の重みが消え失せてしまう。その「沈黙」は深い三昧にあって、物理的な時間で計ることのできない「沈黙」だった。意識は深海に降りていき、今度はその深海から一気に浮上して次の言葉が吐き出された。「しかりと言えども窃かにこの心を推するに」と。阿弥陀さんのこころなど自分には分からないのだ。分からないけれども、その分からないところを推測して考えてみると、という意味だ。これは「〈真実〉のデッサン」という手法だ。本当は分からないのだから、分からないものを推測してみようがないではないか。そんなものを推測することは無意味ではないかと批判することはできる。その批判を承知の上で親鸞は、我々には〈真実〉のこころなどないのだ。それを哀れに思って阿弥陀さんは「如来の至心」を恵み与えて下さったのだと展開していく。「至心」とは「まことのこころ」のことで阿弥陀さんのこころを指している。常識で考えれば明らかに矛盾したことを親鸞は述べている。分からないと言っておきながら、分からないことを推測すると。ここが意味深いところだ。人間が分かったことを推測することは容易いだが、分からないところを推測するのが信仰の妙味というものだ。私たちは、「本願寺」と言って分かったことにしているが、その「本願」が分からないのだ。それは阿弥陀さんの願いであって人間には分からないと親鸞は言っている。「南無阿弥陀仏」は耳にたこができるほど聞いているが、その「阿弥陀仏」が分からないのだ。「阿弥陀仏」とは「無量寿仏」であり、「無量」だから人間の能力では量ることが出来ないという意味だ。向こうに書かれている「本願寺」や「阿弥陀仏」が分からないばかりではない、それらを考えているこの自分という存在の意味が分からないのだ。
そう言えば2015年に松ヶ丘文庫の伴勝代さんの依頼で鎌倉の東慶寺でお話をしたことがあった。私は「南無阿弥陀仏とは無意味ということです」と話した。話し終わって別室に戻ってきたら女性がお茶を淹れてくれた。その女性は、こんなことを言われた。「主人が定年退職になって、毎日家に居て、何で三度三度食事を作ったり、洗濯するのかと思っていたんですが、それもこれも無意味だったんですね」と晴れやかに語られた。その時、「無意味」がひとを晴れやかにしたのだ。つまり「分からない」ということがひとを鬱屈させることもあれば、晴れやかにすることもあるということだ。その女性は旦那がサラリーマンだったので、会社に送り出せば後は自由時間を過ごしていたのだ。ところが定年退職で旦那が四六時中、家に居ることで世話をしなければならなくなった。いままで自由だったのに、旦那が定年になったせいで不自由を強いられこころが鬱屈していたのだ。その時、「無意味」という言葉がこころを開いた。正確に言えば〈無・意味〉なのだが、意味を貪りたいと思っていた貪欲の食指がポッキリと折られたのだろう。つまり、食事を作ったり洗濯をしたりしていた、その行為の意味を欲しがっていた。何で自分がこんなことをしなければならないのだろうかと。愚痴を吐くときは、必ず「意味探求心」が吐かせている。しかし、そんな意味などもともと無いのだと知らされたのだ。もともと無いと気付くと、ひとつひとつの行為が新鮮な輝きを取り戻す。動機と行為が一致するからだ。トイレを掃除するのも、「綺麗にするため」という動機で始まるのだが、綺麗にしようと思ってやっている行為から、やってみたら綺麗になったという行為へと変化したのだ。「行為が先、思いは後」に逆転したのだ。これが「〈無・意味〉」の利益だ。「意味」を無として否定して下さる阿弥陀さんの作用が、「〈無・意味〉」だ。だから「分からない」は自分の能力不足とか修行不足ではない。「分からせない」という如来の作用なのだ。この「分からせない」作用に出会ったら、一番身近な、この呼吸に目が止まった。この一呼吸のところに「生と死」が火花を散らしていた。ここに「曠劫以来流転してきた身」と「永遠の浄土からのひかり」がスパークしていた。そうなってくると、親鸞が「仏意測り難し」と言ったのは、「自己内世界」の愚痴ではなくて、阿弥陀さんからの「測り難し」というおおせだったのか。「自己内世界」では永遠に気付くことができないという懺悔と、阿弥陀さんの「測ることは出来ない」というおおせへの讃嘆がシンクロした表現だったのか。
「〈無・意味〉」に救われた彼女だが、いまも愚痴を吐きながら旦那の世話をしているのだろうか。きっとそうに違いない。「意味探究心」は自分で止めようにも止められないから。ただこのこころが起こったとき、ハッと足下に〈無・意味〉が展開していたことに気付くのだろう。阿弥陀さんは「つねに」だが、人間には「気づきの時」が必然する。