羅針盤

表現するということ。つまり、「書く」という行為は、闇夜に目的地の分からない大海原へ船をこぎ出すような行為だ。船は羅針盤の方向に向かって進んでいくのみ。決して目的地が分かっているわけではない。しかし、そっちの方向へ行け、そっちの方向に何かあるのではないかと、かすかな予感が与えられているだけだ。その予感を頼りに船をこぎ続ける。
その予感は「永遠」とか「浄土」とかいう象徴的な言葉で言わなければならない、何かだ。浄土真宗という教義に長い間ふれてくると、「浄土」という言葉を聞いた途端に、「浄土という意味」が連想されてしまい、「また浄土か」などと侮るこころが生まれる。言葉には必ず賞味期限のようなものがあって、その言葉を初めて聞いた時には新鮮でも、長い間、それを聞いてくると当たり前になり腐っていく。「浄土」もそれを代表する言葉ではないか。しかし、その当たり前になってしまった言葉を再度、問うてみると、本当はその言葉の意味が分かっていなかったことに気がつく。「浄土」という言葉が分解されて「浄」と「土」に分かれ、「浄」とは何か、「土」とは何かと意味解析されていく。安田理深先生は「浄土」は名詞ではなく動詞だと言う。「浄土」とは「土」を「浄める」ことであり、「浄める」とは生理的に浄化することではなく、日常を信仰化することだと言われる。この八月四日に90歳で亡くなられた木村敏先生(精神病理学)の言葉で言えば、「モノ化」されていた「浄土」が「コト化」されることだ。私たちは身の回りのものをみて、それを名詞化、つまり「モノ化」している。つまり事物と言葉が一対一対応していると思い込んでいる。目に見えるものはモノ以外ではないから、モノだけがあるように見える。しかし、本質はコトではないかと木村敏さんは言う。モノは名詞化されているが、コトは決して眼に見ることはできない。「ことは眼に見えるように呈示することができない。ことはことばによって語り、それを聞くことによって理解する以外ないのである。」(『時間と自己』中公新書1982年)と言われる。さらに「私がここにいるということ、私の前に机や原稿用紙があるということ、いま私がその上に字を書いているということ、私がもう長らく時間という問題について考えているということ、これらはすべてものではなくことである。私がタバコを吸いたいと思っていて、ライターが見当たらない、というのもことである。このようなさまざまな場面で立ち現れてくることは、すべてきわめて不安定な性格を帯びている。(略)だから私たちの自己は、ことの現れに出会うやいなや、たちまちそこから距離をとり、それを見ることによってものに変えてしまおうとする。」(同書)と述べる。仏教の意味空間で、それを言えば「コトをモノ化する作用は執着という煩悩だ」となろう。執着は不安定なものを固定化して安心を得ようとする心理作用だ。だから人間は金や健康などを固定化して安心を得ようとしているに過ぎない。しかし本質はモノではなくコトだから、決して固定化できない。そう言えば、40年程前だと記憶しているのだが、「真宗の本尊はモノではなくコトである」という表現が流行したことがあった。最初にこれを言われたのは廣瀬杲先生だと記憶しているのだが、定かではない。仮にそうだったとして、廣瀬先生のこの発想を触発したのも木村先生の表現であることは間違いないだろう。当時、この表現に触れて、みんな「そうだったのか」とこころが開かれたように思ったが、その表現も多用されてくると色あせてしまった。それこそコトが「モノ化」されてしまったからだ。表現は多用されると必ずインフレーションを起こす。それでも、最初に使われた時には色めくのだ。この色めきが暗示したものは何だのだろうか。それはその表現がどこかで、〈真実〉に触れているからに違いない。そしてその〈真実〉とは艱難辛苦の努力の末に勝ち取られるものではなく、何の変哲もない、ごくありふれた「日常」に転がっているものだ。親鸞が「仏」よりも「凡夫」を重視するのは、私たちが大雑把に見ていて気付くことのない、ごくありふれた「日常」を微視的に取り上げるためだった。「~する」という動詞的なものに価値を見る人間に向かって、「ただそこにある」という存在の革命的意味を開くためだった。それが「如是我聞」という仏教の伝統だ。〈真実〉は〈真実〉を説く人間のところにあるのではなく、「それこそが〈真実〉だ」と受け止めた人間のところにあるという見方だ。動詞的なものに価値を見る人間にとっては、「ただそこにある」ということは「無価値」に見えてしまう。だから道元禅師には、念仏の声がカエルの声と同じに聞こえたのかも知れない。確かにそういう念仏もあったのだろう。しかし本当の念仏とは、その動詞的関心が〈真実〉を見えなくしているということに気付いた嘆息と感嘆の入り混じったため息なのだ。その気づきが本質であって、気づきからお釣りのようにして漏れた念仏の声が「念仏」ではないのだ。
「念仏」とは、それこそ「コト」なのだ。「浄土」も「コト」なのだ。だから人間の言葉では決して表現し尽くすことはできない。言葉が「言(コト)の葉(端・ハ)」だと言われるように、「コト」のほんの少しの部分を表したに過ぎない。それであってもなぜ人間は「コト」を「言葉」にして「モノ化」していくのだろうか。それはおそらく、「ただそこにある」という重みが「ただある」という状態に飽き足らないからだろう。それを曽我量深先生は「回向表現」と「モノ化」した。表現とは「回向」されて成り立つことだと。「回向」とは「向こうからやってくる促し」という意味で、「自分」から自発的に起こるものではないという意味だ。ここまでパソコンのキーを打ってきて、ハッとこの身体に眼が行った。この身体は38億年が、〈いま、ここ〉に現成していることに改めて驚く。この身体は永遠のピュシス(自然)からの促しである。この身体はもちろん単独にあるのではなく、この身体を身体として育んでいる環境全体を内包している。仏教はそれを「身土不二」と言う。「身」は主体、「土」は主体を主体として成り立たせている環境が「不二」、つまり二つでは無いという意味だ。この「身土不二」こそが自分にとって、「原始未開」だったのだ。人間は文明という「共同幻想」に酔っているが、本質はどこを切り取ってみても「原始未開」なのだ。今回のコロナ騒動も、それをよく表している。目には見えないウイルスというものと人間は何万年も共存してきたわけだ。ウイルスの生存の真の目的は分からないのだが、それと同じように人間の目的も分からない。歎異抄的に言えば、ウイルスと私は「父母兄弟なり」(第5条)なのかも知れない。このくらいのいのちの深みから曽我量深先生は「念仏は原始人の叫びだ」とおっしゃったのではなかろうか。まあ目的は分からない。「予感」があるだけだ。それを「方向性」という言葉で言い換えてもよいだろう。船の羅針盤のようなものだ。船は依然として闇夜を航海している。遠くを見渡してみても透明な闇のみだ。そこで頼りになるのは羅針盤だけだ。どれほどの嵐で方向が分からなくなっても羅針盤だけは、〈真実〉の方向を指している。この羅針盤を「南無」と「モノ化」したのが親鸞だった。そうは言っても、お前がそう受け取っているだけだろう、親鸞はそんなことを言ったのかと言われることもある。まあそう言われても、それに返す言葉もない。しかし、本質は、親鸞を自分の内面に体験していくしかないのだ。内面化された親鸞を「親鸞」と呼ぶしかないのだ。