小我から大我へ

自分は「この世」と、どの一点で関わっているのだろうかと思う。つまり、「この世」をどんなふうに受け取っているか、「この世」で起きている様々な問題を、私はどのように受け取っているのだろうか。これは「視座」の問題だ。
『仏説無量寿経』の初めには、「尊者阿難、仏の聖旨を承けてすなわち座より起ち」とある。それを受けて親鸞は「尊者阿難座よりたち 世尊の威光を膽仰し 生希有心とおどろかし 未曾見とぞあやしみし」(「浄土和讃」)とうたっている。お釈迦さんの促しに応じて、阿難が立ち上がったという、その「座」とはどんな座だろうか。単純に、その場所からすっくと立ち上がったとも受け取れるが、それではつまらない。やはり、「座」は「視座」と受け取った方が、〈真実〉の味わいが生まれてくる。その「視座」から立ち上がったということは、いままで自分が座っていた「座」が「座」として、始めて見えたということではないか。立ち上がらなければ、自分がいままで座っていた場所が「座」とは見えないから。つまりこれは自分の「視座」が相対化されたことを物語っているのではないか。いままで「この世」と関わってきた一点が相対化されたということだ。この問題は、有名な「聖人のおおせ」が共鳴してくる。もちろんその「聖人」とは「親鸞」である。
「聖人のおおせには、『善悪のふたつ総じてもって、存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします』とこそおおせはそうらいしか。」(『歎異抄』後序)だ。
ここに「この世」のことはすべて「そらごとたわごと」であり、そこには「まことあることなき」であって、「ただ念仏のみぞまこと」と見事に、「そらごとたわごと」と「まこと」が切り分けられている。このように見事に切り分けられると、この親鸞の表現に頷かされてしまう。「ただ念仏のみぞまこと」とはよく分からなくとも、「そらごとたわごと」は分かっていると感じてしまう。その感じ方は、娑婆の政治や世界の動向、環境問題やコロナの事などを見ては、「いやな世の中になっちまったもんだぜ」と厭世観に浸っているだけのものだ。この感じ方は正しくない。「そらごとたわごと」は「ただ念仏」という「視座」が受け取った内容だから、「ただ念仏」が明確にならなければ、その感じ方は正しくない。
親鸞は「ただ念仏のみぞまこと」という視座に立って、「如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど」と実感を述べたのだろう。ここで言う「如来の御こころ」とは「絶対基準」のことである。ここでは「善と悪」という象徴的な言葉で述べているが、これは「相対的な価値観」を象徴した言葉だ。つまり人間が感じる感じ方はすべて「相対的」なことであって、「絶対基準」をもって感じたものではないと述べているのだ。それを「まことあることなき」と語る。
それでは何が「まこと」なのかと答えを要求されたから、「ただ念仏」という言葉が飛び出した。これは文法上の要求だ。親鸞は「そうではない、それはまことではない」と言ってしまったので、「それではまこととはなんですか」という疑問が当然出てくる。そう問われてしまうと、それに取りあえず答えなければならない。親鸞は、その要求に押されて、安易に「ただ念仏」という答えに飛びついてしまった。本当は「ただ念仏」などと答えてはダメなのだ。そう答えてしまうと、「まことあることなき」と「ただ念仏」が、それこそ「相対的な価値観」というまな板の上に乗せられてしまうではないか。それを聞いたひとは、「まことあることなき」は捨てて、「ただ念仏」にしがみつこうとするのは当然だ。そういう「相対的な価値観」の上での判断そのものが「まことあることなき」だと言いたいのに、再びそこへ戻ってしまうことになる。おそらく親鸞も、本音ではそんなことは言いたくなかったのではないか。「まこと」とは何ですかと問われたら、「まこととは何なんだろうね。自分にもよくは分からないのだよ」と反問しなければならなかった。親鸞も「まこと」という言葉は知っていても、その内容は分からないと思っているからだ。ここで親鸞は「まことあることなき」というはたらき、つまり「作用」を言っているだけで、「まこと」の定義をしているわけではない。まあ親鸞を擁護して言えば、「ただ念仏」で間違いないのだ。「念仏」に始まり「念仏」で完結するのが真宗門徒だ。究極は「ただ念仏」以外にないのだが、その「ただ念仏」には万感の思いが詰まった念仏なのだ。
それはともかく、「まことあることなき」と言われても、「まことあることなき」ものを「まこと」としてしがみついているのが私である。しがみつかそうと促してくるものは「煩悩」なのだが、これは末那識と言われるもので、これは無意識だから逃れられない。末那識はどこまでもしがみつかそうとしてくる。でも末那識の更に下には阿頼耶識がある。末那識をも下で支え、末那識を動かしている当体だ。それが阿頼耶識だ。末那識は無意識的貪欲であるから、あらゆるものを自分に取り込み、自分を守り、自分の利益にしたがっている。それは「私」という文字の由来を連想させる。「私」という漢字は、「禾+ム」だが原義は、「禾」は「稲」を表し「ム」は「口」の変形したものだ。「口」とは、その稲を囲んだ形だそうだ。この「口」が「ム」に変形し、現代の「私」という文字が出来上がった。この「口」が見事に末那識のはたらきを象徴しているように感じる。自分の内側と外側に境界を作り、すべてを内側のものとして私有化したいのだ。それは自我がもともと不安定だからだ。稲であれば、自分のものとして囲むことは可能だ。貨幣経済であれば金、地位や名声や評判までも囲い込む。つまり具体的なものから、抽象的なものまでを囲い込む。これはいままでの流れで言えば、「視座」である。すべてを囲い込もうとするのが視座というものである。
だから「『この世』はこういうものだ」と考えるのも視座により囲い込まれた内容だ。そうやって自我は安定をむさぼろうとする。その視座に揺さぶりをかけれくるのが阿頼耶識だ。そこには「まことあることなき」だと。末那識は無意識の貪欲だが、阿頼耶識は無意識の底を流れる大河だ。末那識が無限の閉鎖性だとすれば、阿頼耶識は永遠の解放性だ。
だから阿頼耶識は「結論」を許さないし、「結論」という過去形を解体する。末那識は「もうこれで済んだ」とすべてに結論をつけたいのだ。「娑婆は所詮、嘘偽りの世界」だなどと。しかし、阿頼耶識はそれを許さない。その「視座」そのものが「まことあることなき」だと永遠に解放しようとしてくる。この大河の如き流れに押し流されていくしかない。
本当の自分とは、自分の思いで囲い込むことができるほど小さくない。もっと広大なものなのだ。この自分が世界に展開しているだけだ。そう思うと「まことあることなき」娑婆が、愛おしくなる。そして永遠にまことはないという作用に委ねるしかなくなる。私が何事かを囲い込んで「私」としようとする意識を「まことあることなき」と解体して、広大無辺な〈永遠〉を与えようと迫ってくる。これこそが「小我」から「大我」への脱皮と暗示される出来事なのだろう。だから、私が人類の中の「一人」ではなく、私一人の中に「人類」が包摂されてくるわけだ。