早朝のテレビでウナギの蒲焼きをやっていた。串刺しのウナギが焼かれ、職人はその串を秘伝のタレに漬け、再び焼き網に戻した。すると煙がワーッと立ち上った。それを見ていた私は、思わず「美味そう」と思った。知らず知らずのうちに、口中が唾液で満たされてきた。そこでハッと我に返った。それを「卑しい」と反省すれば、こころは「道徳的意味空間」に入ることになる。
つまり、私個人にしか起こらない現象だと受け取ったということだ。しかし〈一切衆生人〉に起こった普遍的現象だと受け取れば、こころは「仏法意味空間」に入る。つまり、誰にでも起こる現象が、たまたま私一人に起こったと受け取ることとなる。
たぶん、猫や犬であれば、その映像を見てもヨダレを垂らすことはないだろう。これは人間だけの特殊な現象に違いない。人間は、あのウナギの映像を見て、自分が過去に食べたウナギを想像しているのだ。ウナギの味わいや蒲焼きが焼かれる、あの香ばしい香りが思い出されている。実際には、ウナギを食べてはいないのだから、味覚でも嗅覚でも感じられない。ただ想像の意識が「美味そう」なのだ。
〈かつて〉経験したものだから、〈いま〉実感される。これはウナギばかりでなく、仏法の「いただき方」でもある。
安田理深先生は、こうおっしゃっている。「四十八願は真実教ということになるが、四十八願そのものをいくら見ても意味の深いことは感ずるが、どういう具合に意味が深いかということになると分からない。しかし、意味の深いものを感じるということは大切なことである。理論に先立って共鳴がある。何か一つの感動をもたざるをえない。(略)今日、我々が『大無量寿経』を明らかにしたいと思うのは、そこに共感共鳴するものがあるからである。それが四十八願を一貫して流れている精神、つまり願心というものである。四十八願に流れているものはお経にあるわけでなく、人間の底に流れているものである。それが表現としてあらわされている。我々はかえって『無量寿経』の上に、自分の底を流れているものを見る。それで共鳴ということがある。全然流れてなければ共鳴ということはない。」(『安田理深選集』大15巻下、p401)
私は仏法などなくても生きていけると、以前は思っていた。そういう思いが浮き上がってきたのも、「自分の底をながれているもの」からの促しだったのだろう。「共鳴共感」というものを感じていたから、仏法に背いているということも感じられたのだ。信順だけが共鳴ではない。反逆も共鳴から生まれた現象だ。一番グッと来るとことは、「四十八願に流れているものはお経にあるわけでなく、人間の底に流れているものである。」という表現だ。端から「お経には真実が述べられているから尊い」と思い込んではならない。お経に共鳴する自分があってこそ尊さが証明されるということだろう。まあ「自分」と言っても、それは「人間の底を流れているもの」のことだが。いわば無理にこじつければ、「人間が先、お経は後」ということだ。丁寧に言えば、お経を生み出した2000年前の人間と、それに感動している現代の人間とが、同じ「人間の底をながれているもの」に共鳴共感しているのだ。2000年前のことが、〈いま〉復活する。それは「いつか、どこか、だれか」性が「いま、ここ、わたし」性へと還流してくることだ。他人事だったことが、自己一人のこととして感じられる。「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。」(『歎異抄』後序)とは、他人事だった阿弥陀さんの悲愛が、実は自分だけを狙い撃ちしていたという驚きだ。これは「一人性」への還流である。お経には、私の事だけが書かれている。私が考える以上に近く深い私のことが書かれている。だから共鳴共感が起こる。
『仏説無量寿経』に書かれているお釈迦さんの「出世本懐」(この世に生まれた真実の意味)は、お釈迦さん自身が述べているのではなく、弟子・阿難(一人)の受け止めだった。またそのことが述べられているお経の冒頭は「我聞如是」で始まっている。「われ、かくのごとく聞けり」だから、このお経全体が「われ(一人)」が聞いた内容だ。それを親鸞(一人)は「それ、真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり。」(『教行信証』教巻)と受け止めた。更にそれを安田理深は「釈尊があって、本願を語るのでない。本願によって釈尊も現在するのである。本願によって私の現在も成り立つ。そこに現在の釈尊に遇う。」(同書p415)と大胆に受け止めた。ここに「阿難→われ→親鸞→安田」へと「〈一人性〉の還流」が起こっている。更にその末席には「私」がいなければならない。この「私」は「一切衆生の中の特殊」であると同時に「一切衆生を代表する典型」でもある。「特殊」は世間知でも分かるが、「典型」は「仏法意味空間」に入らないと分からない。「典型」が分かるとお釈迦さんや阿弥陀さんを権威化する意識から解放される。安田先生が「阿弥陀仏とは、たすける仏ではなく、たすかった衆生のことである。」(同書p256)とおっしゃるのは、「人間の底を流れているもの」から促された表現だろう。阿弥陀さんは「助ける者」、衆生は「助けられる者」という権威主義が解体されている。
それが、『歎異抄』第2条の「弥陀の本願まことにおわしまさば、釈尊の説教、虚言なるべからず。仏説まことにおわしまさば、善導の御釈、虚言したまうべからず。善導の御釈まことならば、法然のおおせそらごとならんや。法然のおおせまことならば、親鸞がもうすむね、またもって、むなしかるべからずそうろうか。」という表現に表れている。「阿弥陀⇒釈尊⇒善導⇒法然⇒親鸞」へと「〈一人性〉の還流」が起こっている。最初は自分から出発して求めていくものだ。親鸞は法然へ、そこから善導へ釈尊へ、そして阿弥陀へと。その流れが還流する。そして「釈尊・善導・法然」がすべて「親鸞」と呼ばれるものの内容になる。「阿弥陀」のみが「まこと」であり、「釈尊・善導・法然」が虚偽になる。「虚偽」とはマイナスの価値という意味ではない。「まこと」を「まこと」として浮き彫りにするための「虚偽」である。いわば私の言うところの「〈真実〉のデッサン」である。自己と阿弥陀さんの絶対関係が開かれたとき、「釈尊・善導・法然」が自己の内容になる。「まこと」は阿弥陀さんのみに属すると自覚されることで、「釈尊・善導・法然」が「まこと」を浮き彫りにする素材に変わる。
これは言い過ぎかも知れないが、第2条の言葉を補完すれば、「法然のおおせまことならば、親鸞の了解、虚言なるべからず。親鸞のおおせまことならば、定光の受け止めむなしかるべからずそうろうか。」でなければならない。定光と阿弥陀さんとの絶対関係が開かれなければ、「釈尊・善導・法然」の真実性は証明されない。問題は「阿弥陀さんと自己」の絶対関係が開かれるかどうかなのだ。どこまで行っても、「一人性」以外に、〈真実〉を証明する場所はない。