足下の沈黙

コロナから学ぶこともいろいろある。ひととひととの対面が難しくなったということは、〈一人〉に帰ることの大切さを暗示しているのかもしれない。それこそ座禅は集団でおこなったとしても、一人の自己内対話だろう。それは「沈黙」という言葉に収斂してくる現象だ。「三上(さんじょう)」という言葉がある。それは「欧陽脩(帰田録)の「余、平生作る所の文章、多くは三上に在り。乃(すなは)ち馬上・枕上(ちんじゃう)・厠上(しじゃう)なり」から、文章を考えるのに最も都合がよいという三つの場面。馬に乗っているとき、寝床に入っているとき、便所に入っているとき。」とネットに出ていた。ひとが自分の世界に没入できるのは、現代で言えば移動中の電車の中、寝床の中、そしてトイレの中というわけだ。個に徹することができる場面を日常の中から、拾い上げているところが妙だ。「沈黙」と言っても、人間にはほんとうの「沈黙」はできない。なぜなら、こころはつねに動いているものだからだ。黙っていても、つねに何かを考えているのがこころだ。それを敢えて「沈黙」と言ってみるところに、「沈黙」の深みがある。
「沈黙」と言えば遠藤周作の名作の題名だ。江戸期の幕府による「キリシタン弾圧」を扱っている。幕府はイエスの彫像である「踏み絵」を踏むませることでキリシタンかどうかを見分けた。その時のイエスの顔は「沈黙」だが、その「沈黙」から信者は無言の声が聞こえたという展開だった。イエスは「踏んでよし」と言ったというのだが、本当の答えはイエスの「沈黙」にあるのだ。踏むことを肯定したと聞けば、それは「自己肯定」に堕すだろうし、踏んではいけないと聞けばイエスの愛は、踏まざるを得ない弱者を見捨てることになるから。
この「沈黙」はヨハネ伝(8-6)の「姦淫を犯した女」の話で、「イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた」というイエスと地続きだと感じられる。立法学者たちは「この女は罪を犯したのですよ。法律で裁くべきでしょう」とイエスを試そうとした。そのときイエスは足下の地面に指で何かを書いている。この仕草をしているときのイエスが好きだ。地べたにしゃがみこんで地面に何かを書いている。おそらく地面は指で何かが描けるくらいの柔らかさだろう。その地面が指に触れたときの感触はどうだっただろうか。湿っていたか乾いていたか。イエスは何かを書こうとこころに決めて文字を書いていたわけでもないだろう。いわば、こころとは別次元で、指そのものが指の動きたいように動いていたというだけのことだろう。その時のイエスは「沈黙のイエス」だ。この「沈黙」から、一転して「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」という「真理の一言」が生まれた。それを聞いた聴衆は、「年寄から始めて、ひとりびとり出て行き」、誰も石打ちの処刑に加わらなかった。この「真理の一言」が真理であるゆえに、聴衆が説得されたのだろう。聴衆にはその言葉を受けて、「沈黙」の中で「自己内対話」が起こったに違いない。初めは姦淫を犯した女を、自分とは無関係の罪人だと見ていたが、さて自分はどうかと問われれば、自分もこころの中で姦淫を犯していると自覚した。彼女を責める自分も同罪だと自覚したから、彼女に石を投げることができずにその場を立ち去ったのだろう。この「沈黙」は単なる「沈黙」ではなく、「三昧・定」というものではないか。指で地面に何かを書く行為は、「三昧・定」に入られている姿だと思われる。
この「沈黙」を仏法では「三昧(サマディー)」とも「定(じょう)」とも言う。柏原祐義は「釈尊はどんな御経を説かせらるる場合でも、その説法の前には、必ずまづ入定して、然る後御演説あそばすといふことが定(きま)りである。」(『三帖和讃講義』)と述べている。『無量寿経』の異訳本である『如来会』(大宝積経)には、「世尊、今、大寂定に入て」と書かれている。この「大寂定」、つまり、「大いなる寂かな禅定」に入ることによって「本願」の教えが説き出されたとある。この「大寂定」とは、お釈迦さんが超人的な瞑想家ということを表してはいない。「大」とは「超越的」という意味もあるが、「普遍的」という意味を持つ。つまり、「いつでも、どこでも、だれでも」という普遍性が「大」の意味である。だからイエスが立法学者たちを前にして、30分も瞑想に入るための準備をしたということではない。一瞬のうちに「沈黙」から言葉が生まれたのだろう。イエスは「いつでも、どこでも」定の扉を開くことができた。それは「足下」に「沈黙」の世界をもっていたからだ。
『涅槃経』に出てくる「月愛三昧」も、この「沈黙」を象徴しているだろう。父を殺した罪に苦しむ阿闍世を前にして、釈迦はこの三昧に入り、阿闍世を癒した。太陽は灼熱でこころを焦がすが、月のひかりは涼しく穏やかに阿闍世を包んだ。釈迦の「沈黙」を見ることによって阿闍世は安静を得たのだろう。あたかもカウンセラーがクライエントから眼を逸らし、窓の外の景色を見つめて「沈黙」する仕草を連想してしまう。もちろんそれは無視ではない。あるたけの関心をクライエントに向けているが、そのエネルギーを窓を通して外部へと放出している。窓の外へと放出することで、クライエントの中で何かが動き出す。これは無意識下におけるカウンセラーとクライエントの相互連関という運動だろう。「沈黙」は自他を統合するはたらきをもっている。
ところで、私が一番気になる「沈黙」は、弟子・唯円の問いを受けた親鸞の「沈黙」である。それは『歎異抄』第9条の「「念仏もうしそうらえども、踊躍歓喜のこころおろそかにそうろうこと、またいそぎ浄土へまいりたきこころのそうらわぬは、いかにとそうろうべきことにてそうろうやらん」と、もうしいれてそうらいしかば」という質問を受けたときの親鸞の「沈黙」である。唯円は長年、念仏の教えについて聞いてきていた。当初は、念仏の教えを喜びをもって聞いていた。しかし近頃は、何とも思わなくなった。浄土へ往きたいという気持ちも失せてしまった。これはいったいどうしたことでしょうか、と親鸞に恐る恐る質問した。この問いを受けて親鸞は、「沈黙」したに違いない。どれくらいの時間かはわからないが、「沈黙」があったはずだと思う。一瞬の「沈黙」だったかも知れない。イエスのように地面に何かを書いていた時間の長さだったのかも知れない。ところが、この「沈黙」を破るようにして、そこから「親鸞もこの不審ありつるに、唯円房おなじこころにてありけり。」と言葉が生まれた。唯円の問いは、唯円個人の問いではなく、人類普遍の問いだった。だからこの問いに答えるための親鸞の「沈黙」もものすごく深いものだったに違いない。思えば、この問いは曇鸞大師が「称名憶念あれども、無明なお存して所願を満てざるはいかんとならば」(『浄土論註』)と自問した問いと同じだ。南無阿弥陀仏と念じ称えるとあらゆる疑いの闇が消えると言われているのに、自分にはまったくそれが感じられないのはなぜかと曇鸞は自問した。これは第20願と名づけられている信仰段階の問題だ。これは信仰に入ることによって始めて見いだされた問題である。第19願は、これから信仰に入ろうとしている段階だから、この疑問は起こらない。ところがそれが深まって第20願に入ると、この疑問が起こってくる。一言で言えば信仰のマンネリズムだ。唯円が恐る恐る問うたのは、親鸞に叱られるのではないかと恐れたからだ。「何十年も〈真宗〉を聞いてきたお前が、まだそんな問いを出すのか」と。ところが親鸞の答えは、まったく違った角度からやって来た。「師の親鸞も私と同じ疑問を持たれていたのか」と驚いたに違いない。しかし同じ疑問であるのに、結末が違っていた。いろいろと述べた親鸞は、最後に「いよいよたのもしくおぼゆるなり」と語った。唯円はその疑問で不安になっているのに、師・親鸞は「たのもしくおぼゆるなり」と安心している。この違いは何か。
親鸞の「沈黙」の深さは人類の普遍性にまで達していたが、唯円は浅かった。浅いから、「自分」に問題があって不安になっていると思ってしまった。それは「自分」程度の深さではない。人類にまで根を下ろしたところの問題だった。つまり誰もが信仰のマンネリズムに堕ち込む問題なのだ。親鸞は人類だから、当然このマンネリズムに堕ち込むこともある。しかしその都度、マンネリズムをマンネリズムとして教えてくる世界を持っていた。教えられればマンネリズムと自分が切り離される。まあその作用を物語的表現で「阿弥陀さん」という言葉に込めている。親鸞は自分の「足下」に超越的な世界を持っている。それでマンネリズムが、自分を教える「教え」へと転換されている。親鸞は念仏を称えて嬉しいと感じる時もあれば、何ともないと感じることもある。自分がどんな感情になったとしても、それは「人類」の法則としてそうなっているだけだと知っている。それが「自分」でどうにかできる範疇をはるかに超えているので、「自分」を手放しているように見える。それもこれも阿弥陀さんとの対話の中で開かれたことだろう。
親鸞は阿弥陀さんとの対話の世界を「足下」に持っている。その世界は「沈黙」の世界である。阿弥陀さんはつねに「沈黙」しておられる。だから決して人間に向かって人間の言葉で語ることはない。たとえ「二河の譬喩」で善導大師が「汝一心正念にして直に来(きた)れ、我よく汝を護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」(『観経四帖疏』)と阿弥陀さんの声を聞いたとしても、肉声を聞いたわけではない。「意味の声」を聞いたのだろう。人間の世界は「言葉の世界」であるが、それを超えて包んでいるのが阿弥陀さんの「沈黙」だ。阿弥陀さんの「教え」とは、決して教訓や啓蒙ではない。永遠の「沈黙」である。「沈黙」だからこそ、そこから聞こえる「意味の声」が無限に鳴り響いてくるのだ。