「みずこ」という現象

これを何と命名してよいのか、まだ見つからない。いわゆる「みずこ(水子・見ず子)」という言葉で形容される現象だ。調べると『広辞苑』第四版には項目がなかった。それで『大辞林』第二版を調べた。すると「【水子・稚児・若子】「みずこ」1、流産または堕胎した胎児。2、生まれて間もない子。うぶこ。」とあった。何らかの理由で、胎児を失ってしまう現象だが、この現象で悩みを抱えている女性が多い。今日も一人の女性(20代)が相談にきた。流産した子の夢を見たそうだ。聞くと、お母さんを責めているふうでもなく、向こうからこっちを見つめているという。彼女は、その子をちゃんと供養してあげられなかったから夢を見たのではないかと受け取っていた。それから本堂で読経をした。私は「読経の間、いろいろとこころの中に思いが巡ったことでしょう」と話した。彼女はうなずいた。「それは仏さまが見せてくれたあなたのこころの世界です。」と述べ、そして最後に「これからはあなたと子どもが一緒に救われていかなければなりませんね」と語った。それにも彼女はうなずいたように見えた。おそらく、寺に相談しに来るまでにはいろいろな思いがあったことだろう。流産してからは体調を崩されていたというから、心身共に悩まれたことだろう。私は、もう十分に彼女は苦しんだと受け止めた。これは他人にはおろか身内にもなかなか話せないことだから、たったひとりで悩んでおられたことだろう。
読経の響きは、この世の言葉であってもこの世を超えるはたらきを持っている。聞いていた彼女はもちろんだが、お経を読んでいる私自身も、こころに様々な動きを感じている。それこそ昼間の意識の底を流れる無意識の世界へとたましいが開放されていく。私は無意識の底で、彼女の苦しみを感じ取っているように思えた。だからあなたはもう十分苦しんだ。これからはその子と一緒に救われていきなさいというメッセージを送った。すべてが終わり、寺を出ていく彼女の後ろ姿は、来る前よりいくらか軽くなったように見えた。最後に「また何かあったら来るように」と告げた。これから夢で赤ちゃんとどんな出会いをしていくのか。それはこれからが決めることだから。今日で終わりのことではない。今日がスタートなのだ。
どのような事情で子どもを流産したとしても、その子は決して母体を恨んではいないと感じる。だからそのことで罪責感に苛まれる必要はない。親鸞は「弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに。悪をもおそるべからず」(『歎異抄』第1条)とおっしゃっている。人間がどれほど重たい罪だと思ったとしても、それは阿弥陀さんの本願のはたらきを妨害するような罪ではないと。阿弥陀さんの救済力は、人間が考えられる範囲をはるかに超えている。だからと言って、罪を帳消しにするとは言われない。罪はどこにあるかと言えば、罪に悩む人間のこころに刻まれることだから。客観的に「罪」があるわけではない。苦しむ人間のこころ以外に「罪」はない。その「罪」を消してしまうのではなく、「罪」があってもなくても、それとは無関係に救うというのが阿弥陀さんだ。だからと言って「罪」を肯定し是認するわけではない。「罪」を肯定してしまえば、救いを受け取るアンテナも折れてしまう。罪悪感はお母さんと赤ちゃんが一緒に救われていくための大事なアンテナだ。でも罪悪感には二つの意味があるから注意が必要だ。ひとつには、自分の罪を帳消しにしたいがための罪悪感だ。自分が犯した罪を消して、なかったことにして、身軽になりたいためであれば、その罪悪感はエゴイズムの罪悪感だ。自分が楽をしたいという煩悩だ。
罪悪感にはもうひとつある。それはエゴイズムの罪悪感をもったままで、そのまま阿弥陀さんの前に全身を投げ出す罪悪感だ。譬えれば、罪の海の底から海面を目指して上昇しようとするのが「エゴイズムの罪悪感」だとすれば、海の底へと罪と一緒に落ちていく、底なしの海へと赤ちゃんと一緒に落ちていく罪悪感だ。その底で待ち受けているのが阿弥陀さんだ。阿弥陀さんの悲愛は、罪の消滅ではなく、罪に苦しむ者と一身同体になってくださるものだ。そして苦しむ者を内側から支えて下さる。阿弥陀さんとの出遇いを願うばかりだ。
出遇うのは、もともと出遇っていたから出遇えるのだ。無関係な異質のものと出遇うわけではない。もともと出遇っていたものなのに、それを忘れていただけなのだ。ずっと昔に出遇っていたのだ。だから出遇いの本質は、「想起」なのだ。それを〈いま〉思い出すだけなのだ。