90歳になろうとしているひとから、「住職もだいぶ歳をとりましたね」と言われた。そう言われてみると、自分も「老人」と思ってよいのだと、なんだか年寄りを承認されたような気がして、ホッとした。だいたい90代の方々から投げかけられる言葉は、決まって、「まだ住職は若いですよ」だった。だから自分はまだ「老人」と思ってはいけないのだと感じていた。でもそのかたから、そんなふうに言われてみると、そうか自分も年寄りと思ってよいのだと安心した。
〈絶対基準〉から照らしてみれば、年齢は相対的なものだから、幻想に過ぎない。だから「老人」という名前はあっても、「老人」というものは存在しない。つねに誰かと比べて若いとか老いているということが言えるだけだ。それでも世間は、「高齢者」とか「後期高齢者」とかレッテルを貼っている。それも人間の平均寿命を計算して、そこから類推して仮に貼っているだけだ。平均寿命というものも相対的なものであって、個人には当てはまらない。しかし行政は、サービスという点から人間を分類している。これも集団を作って暮らす人間ならではのやり方なのだろう。
しかし、何で「住職もだいぶ歳をとりましたね」という発言にホッとしたのだろうか。おそらく、自分ではまだまだ「若い」と思い込んでいるからだろうか。「若い」とは「未熟で、思慮が浅く、経験不足で、世間知らずで、半人前、尻が青い」と感じているということだ。「老人」が完成態であるとすると、「若者」は未完成態だ。それで「若者」は「老人」を目指して(?)生きているから、まだまだ努力を継続しなければならないと思っている。ところが、もう「老人」なんだから努力をしなくてもいいよ、ゆっくりしなさいよと慰めれたように感じたのだ。さらに、年上のお年寄りから、「あなたはもう立派な大人だ」と認められた安心感かも知れない。
親鸞は、どうなんだろうという疑問が湧いてきた。彼は「因位」というキーワードで、そのことを受け止めていたのかも知れない。「因位」とは、「果位」に対する言葉だ。例えばリンゴの種は「因位」であり、それが実ったものを「果位」という。子どもが「因位」であれば、「果位」は大人ということになる。それを仏道に当てはめれば、「因位」が菩薩であり、「果位」が仏という関係になる。親鸞は一生涯、自分は「仏」だと言わなかった。いわば「因位」の菩薩の位に留まった。さらに「あなたは菩薩ですか」と問われれば、「菩薩などとはほど遠い、凡夫です」と答えたかも知れない。続けて、「あなたは凡夫なんですね」と念を押すと、「凡夫などという立派なものでもない」とおっしゃったかも知れない。「上下」という概念を使えば、上位よりも下位へ、下位よりさらに下位へという認識だろう。つまり、自分を他者に向かって「自分とはしかじかの者です」と表明することのできないものが「因位」ではないか。自分で「自分自身」を定義することを許さないはたらき、それが「因位」である。阿弥陀さんがご覧になっている「自分」が「自分自身」であって、「自分」には見えないものということになる。これは『歎異抄』(第9条)の「仏かねてしろしめして、煩悩具足の凡夫とおおせられたることなれば」という表現に源泉がある。「自分」というものは阿弥陀さんだけが御存じのことであり、「煩悩具足の凡夫」は「おおせ」つまり、「教え」であるという認識だ。だから「自分」が「自分自身」を「煩悩具足の凡夫です」と表明することは間違っているのだ。
先日、Eテレの「こころの時代」で禅僧・ネルケ無方というひとが、「生きていることに意味はない」と分かったと語っていた。仏道を求めて入門したのは、「生きていることの意味を求めて」だったが、三十年、座禅を経て気付いたことは、「生きる意味はない」だそうだ。生きる意味を求めるのは「頭」つまり、「意識」だが、ほんとうはそれを支えている身体こそが主体である、ということだろう。これは私の言っている〈無・意味〉と似ていると思った。ただ一点違っていたのは、そこに阿弥陀さんがいないことだ。「生きることに意味はない」ということは、阿弥陀さんから私に投げかけられる「教え」であって、自分の自覚内容になってしまうと自家撞着してしまう。もちろん、自分が「自分」を納得させるために、そう言ったのであれば、それはニヒリズムに堕してしまう。「そこに仏があるかないか」、それだけが問題なのだ。
人間は、自分でいくら否定しようとしても、どこまでも「意味」をむさぼりたい生き物だ。臨終の一念にいたるまでむさぼりたいのだ。それなので阿弥陀さんは、臨終の一念まで、「生きる意味はなし」とむさぼりのこころを解除しようとはたらいて下さる。それだから、自分はいつまでも「大人」にならずにいられるのだろう。ずいぶん昔、「永遠の少年」という言葉を聞いたことを思い出した。「永遠の少年」というのは「ユング心理学の個性化過程における幼児元型」のことで、あまり肯定的には使われていないらしい。いつまでも大人になりきれない依存的な性向を表すようだ。しかし、仏法では違う。仏法は「遊戯(ゆげ)」という言葉を重んじる。それは「永遠の少年」のマインドに共鳴する。曇鸞は「遊戯」を菩薩が凡夫を救うための方法として述べているが、枝葉を落として言えば、「することとしたいことが一致している」ということだ。だから「遊び」に通じている。無心に遊んでいる少年を見て、大人はそれを「永遠の少年」と受け取っただけだろう。しかし、それは少年だろうが大人だろうが、永遠に求めて止まない、「遊戯」への憧れではないのか。いくつになっても、「因位」にあれば「永遠の少年」を生きていることになろう。たとえ100歳であってもだ。そのよい例が詩人のまど・みちおさんだった。