仏に慈悲心なし
慈しむ余裕などなし
苦の我と一身同体になって下さっているから
そうだったのだ。安田理深先生が「如来は衆生の自覚に先立って衆生になっている。如来の本願は信仰の生命といってもよい。我ら衆生は、我々がそれを自覚するに先立って、如来においてあるものなのである。」(『安田理深選集』第15巻下、p132)とおっしゃっていることと同じことだ。
仏教の常識では、仏(如来)が慈悲心を起こして苦悩の衆生を救うという話になっている。まあそういう物語的表現も、あながち間違いではない。しかし、突き詰めて言えば、仏には慈悲心はないのだ。慈悲心とは「間」があって起こるものだから。人間には「間」がなければ愛という感情は起こらない。しかし、阿弥陀さんにはそんな余裕はない。阿弥陀さんは私と一身同体だから。(「一心同体」よりも「一身同体」という表現のほうが切実に感じる)それも阿弥陀さんのほうから一身同体になって下さっているのだ。こっちから一切頼んではいないのに。
曇鸞も、人間にわかりやすいように、慈悲を三つの位相で表現する。1、小悲(衆生縁の慈悲)・2、中悲(法縁の慈悲)・3、大悲(無縁の慈悲)と(聖典p315)。小悲と中悲は人間関係の愛だが、大悲だけは想像を絶するから分かりにくい。「無縁の大悲」とは「無条件の愛」だ。無条件のということは、無私の愛であり、人間には想像することもできない愛だ。人間が、欲したり予想したりできる愛は「条件付きの愛」だからだ。「条件付き」とは、現状を改変することで成り立つ愛だ。「無条件」ということは一切の改変がないという意味だ。こんな愛を人間は欲しがらないし、想像することもできない。イエスは「善きサマリア人」(ルカ伝10)の譬えで「隣人愛」について語る。これは善い行為であって誰も否定できない愛の形だ。でもこれを突き詰めていけば人間は矛盾に悩む。この愛を人間が四六時中休むことなく突き詰めようとすると、この愛を担おうとする肩が折れてしまう。これを仏教の意味空間に置き直すと、「自利利他」の問題である。つまり「自利しようとしたら利他ならず。利他しようとしたら自利ならず」という矛盾に突き当たる。
矛盾に突き当たり、小悲・中悲の愛に断念してふと足下を見る。するとそれを下支えしてくれていたものがあった。それが大悲ではないか。譬えれば、それは「大地」だ。『仏説無量寿経』にも「猶如大地」(猶し大地の如し)とある。倒れた者にのみ感じられるものが「大地」だ。そこで愛が、「人間から起こす」というベクトルから、「人間が支えられている」というベクトルに変わる。それが「如来は衆生の自覚に先立って衆生になっている」という言葉と共鳴する。『仏説無量寿経』には「群生を荷負してこれを重担とす」と暗示されている。群生とは、群れ生きるものであり、私のことだ。この私の苦悩を背負って下さり、それを重荷として片時も忘れることがないという。しかし、このように解説したところで、私がここにあり、その私の苦しみを阿弥陀さんは背負って下さっていると発想してしまう。それは違うのだろう。私が「私自身」と思う以上に近く、「私自身」になって下さっているもの。そういうレベルの話である。それでは、その「私自身」とは「身体body」のことだろうかと問うてみると、それでもないと聞こえてくる。「身土不二」とか「身土一如」という意味の「身」のようだ。現代語に換言すれば、「環境と一体になっている身」である。そこに時間を入れ込めば、「曠劫以来、流転してきた身」である。私は、この「身」には未だに出会っていないようにも思う。自分が把握できる「身」は、私の意識に浮かび上がってきた「身」、感覚的に感じることのできる「身」以外ではないから。それよりもっと「近い」ものとは。
そういうふうにしか受け取れない私に対して、「如来は衆生の自覚に先立って衆生になっている」と迫ってくる。こちらは永遠にそれをうなずけない。そのうなずけない私に向かって、永遠から叫んでいるように聞こえる。こっちは永遠に拒否する。向こうはその拒否感をものともせず、私はお前になっていると叫んでくる。この「永遠の乖離」が、何事かを〈温かく〉暗示してくる。